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2012.05.30

「熟議の民主主義」は「クジ引き政治」に到りつく

手間ひまをかけた選挙よりもクジ引きのほうが
いいというのは皮肉な話だが、熟議の民主主義と
クジ引き政治は裏腹の関係にある。

●ねじ曲がりやすい「民意」

 このところ投票によって議員を選ぶ政治はダメなんじゃないかという話を書いている。あれこれ考えているうちに、ほんとうにダメな気がしてきた。

 人気のある政治家が、有権者の大賛成する政策を並べ、その最後にたとえば「原爆研究の推進」と書いて当選すれば、原爆開発が民意ということになってしまう。原爆開発をしたほうがいいと信じている人は「何か問題でも?」と思うかもしれないが、「ユダヤ人排斥」(じつは抹殺)でもいい。大賛成される政策を羅列したなかに問題ある政策をまぎれこませ、しかも人気のある政治家ならば、問題ある政策を「民意」に変えてしまうことができる。

 4月24日朝刊の朝日新聞におもしろい話が載っていた。

 オーストラリアでは、2大政党がともに反対していた炭素税導入が実現してしまったという。それは緑の党が1議席を獲得したからなのだそうだ。
「1議席の政党の言うことをなぜ大政党が聞くわけ?」と思うが、それは二大政党が1議席差になって、1議席をとった緑の党がキャスティングボードを握ってしまったからだという。政権を維持したければ、緑の党の言い分を聞かなければならない。
 緑の党党首は「やっと機会が来たと思った」そうだ。
 2大政党の議員はそれぞれ圧倒的多数の有権者の投票によって選ばれたという意味では「民意」を代表している。私は炭素税の導入に反対というわけではないが、大政党がわずかの有権者の票しか得ていない政党の言いなりになるのは妙だ。

 これと似たことは、あちこちの国で起きている。

 ヨーロッパでも、右翼や急進左翼政党がキャスティングボードを握るまでに成長し、政権をとろうと思えば、言うことを聞かざるを得ない状態が生まれつつある。

 日本でも、参議院で民主党が過半数を割り、似た事態がすでに生じている。キャスティングボードを握った政党の力は、ときに理不尽なまでに大きい。

 キャスティングボードを握るのは、もはや政党でさえないかもしれない。原爆開発でもユダヤ人抹殺でも、あるいはほかのことでもそうとう妙な考えを持っている政治家一人の言うことに、政権をねらう党が耳を傾けなければならなくなるということも起こりうる。

 もちろん、大政党がヘンな主張に組みしてしまったツケはいずれ有権者の離反という形で払わなければならなくなるというのが教科書的な民主主義の理屈だが、ほんとにそうなるかどうかは次の選挙にでもなってみなければわからない。


●「不安定な民主主義」を超える

 民主主義というのは不安定なものだと言われるが、その原因の一つは、投票による政治が行なわれているからだ。

 前回まで書いてきたように、抽選によって国民の代表者を選んで彼らに判断をゆだねたほうが、そうしたことは起こりにくい。抽選で選んだ「ふつうの人びと」は、次の選挙が気になるわけでも多数派工作をするわけでもない。対立する両方の意見を聞き、自分の良心に従って判断することが、政治家よりも期待できる。

 もちろん利害関係者が選ばれてしまう可能性はある。しかし、抽選で選んだ候補者の一定の割合について、対立する意見を持っているグループに拒否権を持たせて、はずせるようにしておけば、そうしたことは起こりにくくなる。
 

●クジ引き政治のほうが「納得感」がある?

 日本の政治では、政府の審議会なども一定の役割を果たしている。政府の諮問を受けて、審議して答申し、それが法律や政策に反映される。
 審議会のメンバーには、中立的な立場の人を交えることもあるが、団体の利益を代表している人が選ばれることが多い。関係業界の人をメンバーにして答申をまとめれば政策化しやすいというわけだが、業界関係者の意見の寄せ集めになりがちだ。
 しかもだいたいの場合は、審議会のメンバーは、事務局つまりお役所が選んでいる。自分たちの望む政策を通してくれやすい人をメンバーにしたり、審議会の会長にしたりしている。これは最悪の政策決定だ。

 少なくとも審議会は中立的なメンバーで構成し、業界関係者は参考人として意見を言うだけにとどめるべきだ。中立的立場の人を選ぶのはむずかしいが、抽選で選べばいい。

 お金も手間ひまもかかる選挙よりもクジ引きのほうがいいというのは皮肉な話だが、こうしたことを考えた人はすでにいる。

 もう10年ほど前のことだが、評論家の柄谷行人氏も、クジ引き政治がいいと言っていた。
 そう主張している氏の本をそのとき読んだが、正直なところいまひとつよくわからなかった。柄谷氏の本は、以前からいくつか読んでいたが、「ずいぶん奇妙なことを言い出したな」と思ったぐらいだった。
 しかし、こうしてあれこれ理屈を考えてみると、たしかに選挙による政治よりもクジ引き政治のほうが、はるかに安定した政治決定ができるように思う。

 もちろん抽選で選ばれたシロウトがかならずいつも正しい判断をするとはかぎらない。ときには間違うこともあるだろう。
 しかし、奇妙な政治力学で政策決定が行なわれるようなことは起こらないはずだ。また、「(さまざまな政策をカップリングしている)Aの候補者にしますか、Bの候補者にしますか」と言われて投票し、あとはお任せということも起こらない。

 自分と同じような有権者がさまざまな意見を聞いて真剣に考えた結果だと思えば、たとえそれが間違った結果になったとしても、あきらめがつくのではないか。

 こうしたことは裁判員制度についても思った。
 プロの裁判官が間違うのと同様、裁判員も間違える。しかし、検察官とのなれ合いや、法律の世界独特の発想によってなされる判決よりも納得できるのではないか。

 たとえば自分が冤罪で死刑になるようなことが起こった場合、プロの裁判官と裁判員のどちらの判決が仕方がないとあきらめがつくだろうか。少なくとも私の場合、あきらめる気になるのは裁判員のほうだ。自分と同じような「ふつうの人」が間違えたのなら、自分だって間違えるだろう。だから仕方がないと思える。政治的決定についても同様だ。

 このように政治の話を書き始めたきっかけは、このところ注目されている「熟議の民主主義」、つまり議論をして政治的決定をする試みをあれこれ見てまわり始めたからだった。その結果、抽選によって代表者を選ぶのは意外にすぐれた方法だということに思いいたった。「熟議の民主主義」と「クジ引き政治」はじつは裏表の関係にある。そのことにどれぐらい気づいている人がいるのか知らないが、「熟議の民主主義」は「クジ引き政治」への道だろう。


afterword

 90年代のアメリカで「パブリック・ジャーナリズム」というのが一時はやった。ジャーナリズムは権力者や企業のレポートをすることが多いが、市民の考えを伝えるべきだと、市民に集まって議論してもらい、その意見を報道しようとした。けれども、手間ヒマがかかるわりに報道できることが少なく、コスト・パフォーマンスの悪さから下火になってしまった。「熟議の民主主義」はその政治版だ。


関連サイト
「熟議の民主主義センター」のサイト(
http://www.deliberative-democracy.net/

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.728)

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