そうしてすべてはデータベースの項目(データ)になった
検索エンジンは、われわれが作成したコンテンツに
誘導してくれる装置だと思ってきたが、
実態はむしろ逆で、われわれは検索エンジンのために働いているのではないか。
●われわれが作成しているのは検索データ?
この欄の原稿を書くために、何日もかかって情報を集めてみたけれどおもしろい話が見あたらない、ということがかつてはときどきあった。最近は、
ネットの情報も充実してきてそんなことはなくなり、むしろ書くことがいっぱいあって困ることも出てきた。それは喜ぶべきことなのだが、別のことで、「あれ
あれ」と思い始めた。
大なり小なり苦労して書いた原稿をネットで公開すると、雑誌に掲載されていたときとは違った読まれ方をされる。雑誌では誌
面に定着されて、どういう枠組みで書かれているのかがページをめくる過程でわかり、そういうことを踏まえて読まれるわけだけど、ネットでの読まれ方はさま
ざまだ。定期的にアクセスして読んでくれる、どちらかといえば雑誌に近い読み方をする人がいる一方で、検索やどこかに張られたリンクをたどってやってき
て、さっと見て、またどこかへ飛んでいく人も多い。
もちろんどう読もうと、それは読み手の勝手だ。しかし、前回書いたような次世代検索と目されているセマンティック検索のコンセプトを知ると、コンテンツを作っている立場としては、ちょっと待てよ、という気がしてくる。
セマンティック検索がほんとうにうまく機能するようになれば、たとえば「富士山の高さはどれくらい?」などと検索すると、ウェブ中の情報をあたって「何メートルです」などと答えを返してくれる。その答えが載っているページをかならずしも見なくてもいいようになる。
これまで検索利用者は、ずらっと提示されたウェブページをひとつひとつあたって答えを探していたわけだから、とても便利だ。しかし、何日もかけて苦労して
ニュース記事を書いたりブログを更新したりしているほうは、そうやって情報を引っ張り出されると知って、「ひとの役に立ってよかった」とニッコリ笑って過
ごす気分になるだろうか。
●作者の影が薄くなるウェブ
実際のところ、セマンティック検索の時代にならなくても、ネットのコンテンツはすでにこうした扱いを受けている。著者が苦労して作りあげた著作物
というよりも、多くの場合、「データ」に過ぎなくなっている。ウェブというデータベースの部分に過ぎなくなり、そういう意味で、著作物の価値は低下してし
まっている。
ベンヤミンというドイツの哲学者は、かつての芸術作品にあったアウラが複製芸術からは消え失せていると言った。一回かぎ
りの芸術作品の持つ希少性やありがたみがなくなっている。印刷物やCDの音楽、映画館の映画などはすべてそうしたものだが、ウェブというデータベースの
データになったコンテンツはよりいっそうアウラが消えている。先のセマンティック検索の例に象徴されるように、もはや作者という存在すら影が薄くなってし
まっている。作者が見えなくなっているわけだから、著作権が無視されるのは当然だ。
データベースのデータに著作権が認められるのかという議論がかつてさかんに交わされた。なぜ議論されたかといえば、著作権があるのかどうか怪しく感じられるからだ。
こうしたことを思うとき、数年前にネットで評判になったショートムービー『EPIC2014』が描くメディアの近未来を思い出す。グーグルとアマ
ゾンがひとつになった「グーグルゾン」がネットの情報を編集してニュース記事を提供し始めたのに対し、ニューヨークタイムズが著作権侵害で訴えた。しかし
敗訴し、2014年にはネットから撤退してエリート層と高齢者向けの紙媒体だけの新聞になってしまったというエンディングだった。
こ
のエンディングのリアリティは年々増していると思う。誰もがコンテンツを作り情報発信できるウェブ2・0的状況の中では、プロが作ったコンテンツは埋没
し、制作費も捻出しにくい。「ネットでは十分な収益が得られないし、しかるべき扱いも受けられないのでネットから降りてしまいたい」内心そう思っているコ
ンテンツ制作者もいるはずだ。しかし、「ネット上にないものは存在しない」ということはますます真実になっており、現実的には降りることもむずかしい。
●ロングテールでは食べてはいけない
『グーグルとウィキペディアとYouTubeに未来はあるのか?』という本は、コンテンツのこうした苦境を問題にしている。
「ロ
ングテールから出てきたビジネスだけで成功できるエンターテインメント会社はいまだ見たことがな」く、「インターネットに投げこまれるユーザー作成コンテ
ンツが多ければ多いほど、良いものと悪いものを区別するのが難しくなるし、そこから収益を上げるのも難しくなる」。インターネットによって仕事をとられる
人々はインターネットの犠牲者だが、誤った情報が広まれば被害をこうむるのは一般国民で、無料の情報はわれわれの貴重なリソースである時間を奪う。もっと
も大きな犠牲者はわれわれ自身だと主張している。
ひと言でいえば、ウェブ2・0批判の本なのだが、著者はシリコンバレーのインサイ
ダーで、かつてはインターネット・カルチャーの信奉者だったそうだ。けれども、あるときこうしたことに気づき、変節した。その結果、アメリカでは、ウェブ
2・0礼賛派などからの激しい反発があったらしい。
●ウェブ2・0という「山火事」
この本の中でもっとも印象的なのは、一世を風靡したシンガー・ソングライター、ポール・サイモンの言葉だ。トップレベルのレコーディングをするに
は100万ドルが必要だが、CDが売れなくなっているいまの市場ではむずかしい。十分な資金も時間もかけられないので、音楽の質が落ちてしまう。活力あふ
れた新たな成長のためにはウェブ2・0という「山火事」が必要なのだろうが、短期的にはすべては明らかに荒廃に向かっている。だから、「ぼくは個人的には
ウェブ2・0に反対だ。ぼく自身の死に反対するのと同じように」とりあえず彼はそう思う。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、どのみちこうした世界に
は行かなければならないのだと諦観している。
われわれは、(結果から見れば)データベースのデータを充実させるために、せっせとネットで情報発信をしている。たとえイヤだと思っても、もうどうしようもない。それは「いまの世の中はイヤだ」と言ってみてもどうしようもないのと同じである。
とはいえ、ネットの世界はあくまでも人工的な世界だ。ネットの基本的な構造が変われば、がらっと変わる。はたしてこれでいいのかと思ってみることがまった
くの無駄というわけでもない。ウェブ2・0にはもちろんいい面もあるし、そもそもウェブでは「ゲームの規則」がこれまでとは根本的に変わってしまってい
る。だから、この話はそれほど単純ではないが、少なくともいま起こっていることが何を意味しているのかはもっと考えてみる必要があることだろう。
afterward
少なくとも今後しばらくは、著作物の尊厳を失うことを承知でネットに進出し、データベースのデータと化すか、ネットの外で細々とした栄光にすがって生きるかという苦しい選択を、ネット外で生まれた著作物は強いられるのだろう。
関連サイト
●グーグルとアマゾンがひとつになった「グーグルゾン」にニューヨークタイムズが負けてネットから撤退し、紙媒体だけの新聞になってしまうというエンディングのショートムービー『EPIC2014』(http://probe.jp/EPIC2014/)。「しかし、ほかにも進むべき道は、おそらくあっただろう」と意味深な言葉で結ばれている。
●アンドリュー・キーン『グーグルとウィキペディアとYouTubeに未来はあるのか?――ウェブ2・0によって世界を狂わすシリコンバレーのユートピアンたち』(サンガ)
(週刊アスキー「仮想報道」Vol.552)
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