検索データベースに組みこまれた我々の個人情報のゆくえ
ウェブでなぜプライバシーが脅かされやすいかといえば、
それはウェブがデータベースであるからだ。
ウェブは、生活の場にもなってきたが、
その本質は変わりようがない。
●みんながみんなのことを書けばプライバシーはない
ウェブは、SNSやブログで情報をやりとりして泣いたり笑ったり友だちを作ったりと生活の場そのものになってきた。だから、冷たいデータ
ベースという感じはしない。しかし、その本質がデータベースであることに変わりはない。情報を作り発信するというのは、ウェブというデータベースのデータ
を作っていることにほかならない。
こうしたウェブのありようは、当然ながら、プライバシーの問題にも大きな影響をおよぼす。
前々回、
「obama」と検索すると、アメリカ大統領候補のオバマについて、略歴から雇った人間の名前、あるいはオバマについて誰がこう言ったということまで情報
を集めて一覧表示してくれる検索を紹介した。こうした検索に見られるセマンティック技術が普及すれば、オバマのような有名人でなくても、技術的には、知り
たい人の名前を検索すると、顔写真から住所、住んでいる場所の写真、日々の行動まで、ウェブ中の情報を掻き集めてきて一覧表示できるようになる。
たとえば、自分の名前で検索すると、「10月3日、渋谷でA子とどこそこに行く」「10月4日B子と新宿で落ち合い、どこそこのカラオケに行く」などと行
動履歴がずらっと表示される、などということも技術的には可能になる。検索エンジンは、A子、B子それぞれのブログから自分に関する情報を集めてきて、検
索結果ページに一覧表示すればいい。
こうして、個人情報を囲む壁はどんどん低くなっていく。というよりも、いまでも検索すればその人間 について書かれたウェブページの一覧は出てくるわけだから、すでにもうかなり低くなっている。そして、その情報が違っていたり、名誉をそこなうような内容 であれば、少なからず被害が生じる。
こうしたことの責任は、検索だけに押しつけるわけにはいかない。誰もが情報発信できるというウェブ2・0的状況があって、ブログやSNSでみんながみんなの情報を書くからそうなる。
これだけ都市化が進み、個人の分散化が進んできたなかで、突然お互いのことをかつてないぐらいに詳しく知っているという村社会的状況が出現しつつあるとい
うのは、かなり奇妙なことだし驚くべきことだが、実際にそうなっている。個人情報の壁が低くなる社会というのは、かつてなく個人同士が近くなる社会であ
り、近くなるばかりでなく、ほかの人についての情報が気軽に発信され、また読める社会である。
前回、有名なミュージシャンのポール・サイモンが、ウェブ2・0というのは山火事のようなもので、ミュージシャンとしての死をもたらすウェブ2・0に個人的には反対だが、好むと好まざるとにかかわらず世界はそうなっていくと言っていると書いた。
それにならっていえば、プライバシーを守りにくい世の中になるのはイヤだと思っても、もはやどうしようもない。もちろん技術的には多少の歯止めはかけられるが、ほかの人が自分について書くのを止められない以上、根本的には逃れられない。
ポール・サイモンのようなミュージシャンが、不特定多数の人々の情報発信によって自分たちのコンテンツが埋没し創造活動に支障を来たすと思っていること と、個人情報の問題は別のこととはいえ、どちらもウェブ2・0的状況がもたらす帰結という意味では同じである。ウェブ2・0がもたらす混沌によって、プラ イバシーの面でも問題は起きうるし、すでにもう起きている。
●われわれはウェブという池のなかの鯉
なぜこうしたことになっているのかについては、情報学者の西垣通氏が『ウェブ社会をどう生きるか』という本の中で書いていることを参考にするとわかりやすい。
社会のシステムは個人のシステムの上位にあって、個人は自発的に動いているつもりでいるが、上位の社会システムから見ると、個人はそれほど自由ではない。
「池のなかの鯉は池から外に出られませんが、鯉はそういう制約を意識せず、自由に泳ぎ回っていると思いこんでいるはず」だと言う。
つまり、それ
ぞれが自由に情報発信していると信じ、また簡単に情報発信できるのはすばらしいと思い、さらには自分の情報を開示するかどうかは自分で決めているように
思っているけれど、システムとしてみるとじつはそうはなっていない。あるいは、多くのコンテンツがタダ当然で手に入り、それはそれで快適だが、その結果、
システム全体としては(たとえば、すぐれたコンテンツや確度の高い情報が発信されなくなるといった形で)不都合が生じている、ということはありうる。
いまのウェブは、無名の人を有名にし、コンテンツの再生産をできるようにするところまでは役に立つ。しかし、すでに有名な人やプロの制作者が報酬を得るシ
ステムとしてはまだ十分でないし、いろいろな不備もある。今後そうした仕組みができていくのか、それとも共有化志向が強く、巨大なデータベース以外の何物
でもないウェブでは、ついにそうした仕組みができないという可能性もある。
●ウェブという「池」の構造には逆らえない
日本語のウェブに比べれば、英語のウェブは、まだしも収益を上げることが可能のように思われる。けれども、その大半は広告収入だ。
グー
グルが広めた検索やコンテンツに連動して広告を表示する仕組みは、データベースであるウェブの特徴にきわめて合っていて、その性質をもっとも効果的に利用
できるものだった。データベースであるウェブの性格を活かせるなら、広告以外にも、コンテンツの再生産を支える収益を生む仕組みはできるかもしれない。し
かし、他人が自分のことについて情報発信することを止められない以上、ウェブ2・0的状況によって個人情報の壁が低くなることは避けられないだろう。
全体を見たときと個々の行動では違うということはリアルな社会でもあることだが、ウェブでは、我々ウェブの参加者も我々が生み出すコンテンツもともに検索可能なデータベースのデータである。自然に作られた社会に比べて、相互監視も含めた監視がずっと容易だ。
●ウェブ2・0礼賛時代は過ぎつつある?
このところこうしたウェブの問題点を書いてきたが、ウェブがすごい発明であることには変わりない。
しかし、ウェブがまだ社会的に弱いメ
ディアであったときには、ウェブの肯定的な面を強調することに意味があった。もはやそうした時代は過ぎつつあるのではないか。力を持ったグーグルに対して
賞賛一辺倒ではなくなってきたのと同様、ウェブのネガティヴな面に注目することが、だんだんと重要になってきた。ウェブ2・0の問題点を指摘する本が増え
てきたのを見ても、ウェブ2・0についてもそろそろそういう時期になってきたように思われる。
afterword
とりあげてきたウェブの現状に対する批判については、すべて賛同するわけではないし、実際のところマトはずれのように思われる点もなくはないのだが、少なくともその一部はあたっている。だからこそ無視できないのだと思う。
●グーグルの地図検索、とりわけ「ストリートビュー」は、現実空間までもがウェブというデータベースのなかに組みこまれたことを象徴している。
●西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』(岩波新書)。一般ユーザーがインターネット上の活動に主体的に参加しやすいことは重要で、ブログやSNSな どのウェブ2・0は「一般ユーザーに直接はたらきかける効果的アプローチ」だが、ウェブ2・0の本質はIT業界のなかの一種の権力闘争にほかならず、「一 般ユーザーがいつのまにか広告業者にされている」と批判している。
(週刊アスキー「仮想報道」Vol.553)
| 固定リンク
|
「ウェブ2・0」カテゴリの記事
- 「何でも無料」時代のネットのビジネスモデル(2009.04.06)
- ブッシュに裁きのときがやってきた?(2009.02.23)
- 検索データベースに組みこまれた我々の個人情報のゆくえ (2008.10.20)
- そうしてすべてはデータベースの項目(データ)になった(2008.10.14)
- 「ウェブ2・0」はじつは「スパム2・0」?(2007.03.16)








