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2008.07.04

「みんなの意見は案外正しい」から裁判員制度は生まれた

裁判員制度とウェブ2・0、何の関係もなさそうだが、
その背景には共通する時代のムードが
横たわっているのではないか。

●裁判員召集令状は「赤紙」?

 裁判員制度は、さまざまな意味で時代の潮流に乗っている。
 ひとつは、前回書いたように、「国が個人の行動をもはやほってはおかない」という流れだ。メタボ健診は、「太っているのは個人の勝手ではない。国家財政にかかわる重大事だ」という決意の表われだし、裁判員制度は、「国民は、司法の世界を自分の問題ととらえてもっと積極的にかかわれ」という発想から出発している。
 おもしろいことには、というか、恐ろしいことには、「余計なお世話」という反発が起きそうな話しであるのにそうはなっていない。ほんとうのところ納得していないのに、「何で突然メタボ健診なんだ」とか「仕事で忙しいのに、何日も裁判所で拘束されてはたまらない」とぼやくだけで、なんとなく受け入れられようとしている。
 なぜそうなるのかといえば、それは国家財政が逼迫していることは誰しもわかっているし、また、「悪いやつを裁くなんてつらい仕事はやりたくない」と言ってすますわけにはいかないとも思う。だから、受け入れざるをえない。しかし、欧米のように、国の権力に対する警戒感があるところとは違い、「水戸黄門」や「遠山の金さん」が好きで、「お上(かみ)」に対する抵抗感のとぼしい国では、「もっと主体的に統治にかかわれ」などというムードが強くなっていけば、過剰な反応が起こる可能性もあるように思う。
 裁判員制度に関していえば、自分の生活の中で何を優先度の高い仕事と見るかは人それぞれだが、「人を裁く仕事が最優先だ」ということになり、召集に応じなければ処罰するというのだから、まさしく旧日本軍の召集令状なみである。アメリカでも、陪審の召喚に応じるのは義務だということになっているが、国民が制度を納得しているかどうかによって、その意味はかなり違ってくるはずだ。

●ウェブ2・0と裁判員制度

 こうした流れとはまた別に、裁判員制度は、ウェブ2・0と言われるようなネット時代の潮流にも合致しているように思われる。
 アメリカのベストセラー本スロウィッキーの『みんなの意見は案外正しい』は、専門家よりも、不特定多数の個人のほうがしばしば正しい決断をしているということを指摘し、不特定多数の人々の情報発信で成り立っているウェブ2・0の思想的バックボーンとなった。
 しかしこの本でも、「みんなの意見が案外正しい」のは、多様性、独立性、分散性の3つが維持されていることが必要で、それはかなり難しいことが指摘されている。けれども、その点についてはあっさり触れられていることもあって、「みんなの意見は案外正しい」ということがかなり簡単に言えるように思われている。
 裁判員制度も、ウェブ2・0時代のこうした発想にきわめて近い考え方に支えられている。
 これまでは、プロの裁判官が法律の専門知識をもとに判決を下していた。しかし、一般の人もつねに日常生活でいろいろな判断をしている。「そうした判断力を活かせば、法律の狭い世界に閉じこもっている裁判官に劣らない判決ができるはずだ」というのが、裁判員制度を支える論理である。
 ひとつの裁判を担当するのは3人の裁判官と6人の裁判員なので、よほどうまく選ばないかぎりは、多様性、独立性、分散性は確保されないだろう。そういう意味では、裁判員制度は、「みんなの意見は案外正しい」条件を満たしていない可能性が高い。
 しかし、スロウィッキーのこの本はもうひとつ、専門家の判断はえてして当てにならないということも言っている。専門家は、自分たちの判断を絶対視しがちだ。自分たちは優秀だと自信を持っていて、疑いを抱かない。そのため間違いをしでかしやすいと指摘している。司法試験という最難関の試験を合格した人の中でもとくに優秀な人がなるという裁判官についても、こうしたことは言えるかもしれない。
 6人しかいない裁判員は「みんな」ということにはならないにしても、裁判員制度は、こうしたウェブ2・0の時代の流れに期せずして乗っている。つまり、裁判員制度というのは、「国が個人の行動をもはやほってはおかない」という前回書いた日本国内の潮流にも合致しているし、ウェブ2・0の潮流にも即している、ということになる。もちろん、だから裁判員制度はいい仕組みだと言いたいわけではない。そうではなくて、このところ思うのは、個別の政策に見えることも、よくよく考えてみると時代の大きな流れに乗っていることがしばしばあるということだ。それだけに逆らうことがとてもむずかしくなる。

●合成の誤謬

「国が個人の行動をもはやほってはおかない」ということに関して言えば、おそらくそのうち、子どものいない人は、何らかのペナルティを課されるようになるだろう。
 何年か前のことだが、ある大手出版社の年輩の編集者とそれまでふつうに飲んでいたのだが、私に子どもがいないと知ったとたんに豹変して、子どもがいないことがいかに罪悪か、愚痴とも不満ともつかないことをくどくど言い出して、あっけにとられたことがある。からまれるのは迷惑だったものの、子どもがいることでよっぽどつらいことがあったのだろうと、私は少しかわいそうにもなった。
 もっともあまりにしつこいので、「子どもを生んでくれと私が頼んだわけではないし、あなたのために子どもを作る義理もない」と言ってしまおうかと思ったのだが、それでは殴り合いにでもなりかねない雰囲気だったのでやめておいた、ということがあった。
 その編集者がたんに酒癖が悪かったのかもしれないが、子どもの何人かは楽に育てられるぐらいの給料をもらっているはずの最大手の出版社の編集者でも、子どものいない人間に対してからみたくなるような思いがあったらしい。ましてや子どもがいることで経済的に困窮している家庭はたくさんあるし、それほど貧しくなくても、子どもをいい学校にやろうとすればかなりの経済的負担になる。また、子どもが思い通りに育っていかなければ、いずれの親も心理的な負担になっているにちがいない。さらに、少子化は、日本の衰退をもたらす根本的な原因と見られている。だから、そうやって非難されると、不条理さを超えて、「まあこうしてからまれるのも仕方がないか」という気がしないでもなかったのだが、実際、「子どもがいるかいないかは個人の勝手」などというと、タダではすまないようなムードはすでにできていると思う。
「国が個人の行動をもはやほってはおかない」場面は、こうしてどんどん増えていくだろう。ひとつひとつはとりあえずもっともらしいのだが、それをすべて通してみると、はたしてそれでいいのだろうか。ひとつひとつは正しいけれど、総じてみると間違いであることを「合成の誤謬」と呼ぶが、そういうことが起こりつつあるような気がする。

afterword
 誤解する人がいるかもしれないので念のため付け加えておくと、「国が個人の行動をもはやほってはおかない」というムードとウェブ2・0が関係あると言っているわけではない。言いたいことは、このふたつが「別個に」裁判員制度を支えている、ということだ。

関連サイト
●政府広報オンラインの動画コーナーの裁判員制度のページ(http://www.gov-online.go.jp/movie/mv_group/saibaninseido.html)。何枚かの静止画で構成されているので、「動画」というイメージとはちょっと違うが、一応Flashで作られている。
●裁判員制度についての充実した個人サイトも生まれている。模擬評議にも参加した人が作った「裁判員制度について学ぼう」(http://sai-ban-in.net/)。
●なま身の裁判官の声が聞ける日本裁判官ネットワークのサイト(http://www.j-j-n.com/)。裁判員制度についてもコーナーができている。

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.539)

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