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2008.07.18

不謹慎なネットでの情報発信か、それとも一歩前進か?

事件現場で厚かましいふるまいをしているという非難は、
マスメディアだけに向けられるものではなくなってきた。
秋葉原の殺傷事件ではまさにそうしたことが起こった。

●「誰もがジャーナリスト」の時代はほんとうに来た?

 時と場合にはよるものの、ことさら取材して原稿を書くというのはどうもあまり好きではない。なぜ自分だけが特別に時間をとってもらって取材対象者に話しをしてもらえるのか、いまひとつ納得がいかないのだ。
 大新聞社の記者ならばともかく、そうでもない私は、「国民の知る権利を代表して取材している」などと錯覚するはずもないし(まあ大新聞社の記者だって、そんなことを思っていちいち取材の申し込みをしている人は少ないだろうが)、時間を割いてもらった時点で、一定の心理的負担を感じることもなくはない。だから、原稿を書く対象者とできるだけ距離をとり、公開されている文書や、誰でも参加できる公開の場などで得られる情報を使って原稿を書くほうがフェアな姿勢を貫きやすいのではないかと感じることも多い。
 もちろんこれは従来のジャーナリズムの基準からははずれているし、それで意味のある原稿が書けるのかば、読む方々に判断してもらうしかない。通常のジャーナリストのように、私は取材することに格別、情熱を感じているわけではないし、評論家でもコラムニストでも呼び名は何でもよく、実際ときどき違う肩書きで書きたいものを書いているだけ、ということはあるにしても、ネットを使えば、広範な情報について当事者の発言などの一次情報まで得られるようになってきたのに、自分が取材した狭い範囲の情報にこだわる必要があるのか、とは思う。以前なら不可能に近かったこうしたやり方がいまならできる。こうやって意味のある文章が書けるのであれば、そうした方法を使わない手はないし、またそれは(潜在的には)誰でもジャーナリストになれるということだろう。
 今回、なぜこうしたことを書き始めたかといえば、秋葉原の殺傷事件で、犯行現場を動画などで撮影しネットで情報発信した人々は、「誰もがジャーナリストになれる時代」を体現した人々であるはずなのに、「不謹慎」という批判を浴びたという出来事があったからだ。私にとっても、そしておそらく(前回書いたように)「誰もが情報発信者」の時代が来ることを夢見た人々にとっても、予想外の展開になっている。
 それはいったいなぜなのか。

●取材はそもそも「お節介」なもの?

 わたしが、取材ということに抵抗があるのはもうひとつ、それが「お節介」という側面を持っているからだ。誰にとって「お節介」かといえば、それは取材される人々にとってである。もちろん取材してもらいたい相手の場合は別だが、そうでなければ、「あなたは私を取材したいというけれど、私の話がいったいあなたに何の関係があるのか」という疑問を持たれても不思議ではない。
 たとえば、こんどの秋葉原の事件のときには、その場に居あわせて写真を撮りまくった人々に対して批判が起こるとともに、事件後、献花する人々に対してフラッシュをたいたマスコミのカメラマンや、被害者と同じ大学に通う学生に生前のようすを尋ねてまわった取材陣に対しても、「鬱陶しいマスゴミ」といった批判がネットで起こった。
「強引な取材や撮影をするからそういうことになるわけで、取材対象者ときちんと話しをし、不幸な事件の再現を防ぎたいという気持ちから取材しているということをわかってもらえば反発を招かない」などというのが、こういう場合のジャーナリストのありうべき姿勢だ。しかし、たくさんの取材対象者に対して時間もないのにそんな手間のかかることはいちいちできないというのが取材者の本音だろう。
 また、被害者の写真ひとつをとっても、警察が配ってくれるわけもなく、被害者がどんな人間だったのか、ある程度、強引にも見える取材をしないかぎりわからない。
 もちろん「被害者の写真なんかいらないじゃないか」という意見は一理ある。しかし、被害者の遺族のなかには、被害者が一生懸命に生きていた証しとしてきちんと伝えてもらいたいという希望を持つ人もいる。メディアが取材をかけなければ、そうした遺族とも出会えない。
 さらに、そもそも取材は、被害者のためにやっているわけではない。誰のためにやっているのかといえば、(取材者本人の好奇心や「仕事だから」といった個人的・職業的事情だけでなく)原理的には、読者や視聴者のため、ということになる。だから、程度問題はあるにしても、取材対象者に多少の負担をかけることは仕方がない、という考え方もありうるだろう。
 そういう意味で、「お節介な取材」が一概にいけないとはいえないのだが、お節介でなく事件が伝えられればそれに越したことはない。そのためには、そこにたまたまいて、はからずも当事者の一人となってしまった人間が伝えることができればそれが一番いいと思う。秋葉原にいた人々が撮影し情報発信したことに対して批判が起こったいまでもそう思う。

●それでも一歩前進‥‥?

 でも批判が起こった。はたしてどうすればよかったのか。
 もちろん簡単に答えは出ない。しかし、ネットでの情報発信者に突きつけられた疑問は、これまで報道カメラマンたちが感じてきた疑問に似ている、ということはいえるのではないか。たとえば、戦場で死にかけている子どもを目にしたとき、報道カメラマンは何をするべきなのか。その子の命をまず助けるのか。それとも、目の前に起こっていることを人々に伝えるのが自分の職業上の使命だとそれを優先させるのか。
 この選択肢に正解はない。自分の非情さを呪いながらシャッターを切り続けたカメラマンもいるし、また逆に、死んでいく子どもの前でシャッターを切らなければならない仕事に疑問を感じて、カメラを持つのを止めてしまった人々もいる。
 しかし、ジャーナリズムの歴史が教えてくれるのは、そうやって迷うことこそ意味があるということである。何の迷いもなくシャッターを切ったショットと、迷いつつシャッターを切ったショットでは、同じワンシーンでもその意味はまったく違う。撮影行為の意味がそれ以前とは一変し、高度な倫理性を持ってくる。倫理【ルビ:モラル】というのは、あらかじめ決められたルールではなくて、迷う過程で初めて生まれるものだ。つまり、迷うことがない撮影行為は、職業的なカメラマンがやろうが、ネットの情報発信者がやろうが、モラルがない。しかし、さまざまな批判が存在することを知り、迷いながらも、撮影し情報発信するのであれば、(そのときもやはり批判は受けるかもしれないが)よく言われるような「無責任なネットでの情報発信」にとどまらないものになる。
 もちろんみんながみんなそんなことを考えるわけではないだろう。というよりも、そんなことを考える人はごくわずかかもしれない。しかし、たとえわずかの人であっても、そうした迷いを持ちつつ情報発信する人が現われれば、それはネットの情報発信が一歩前進したということになるのではないか。

afterword
「人間は考える葦だ」と言ったのは、フランスの偉い哲学者だが、「人間は考えさせられる葦」なのだと思う。何か出来事にぶつかって考えさせられる。そして伝えようとする。それは人間の本質的な欲求だろう。

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.541)

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