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2008.07.11

秋葉原殺傷事件についての意外な反応

みんなが情報発信者になるのは、きわめて望ましいことのはずだった。
しかし、秋葉原の無差別殺傷事件では、非難を招く事態が起きている‥‥

●事件の野次馬がことのほか不謹慎に見える理由
 

 ネットに犯人の痕跡が残された事件を何度か取り上げてきたが、その結果、何かがわかったかというと、そうでないことのほうが多い。犯人の以前の行動と一貫性があって事件が起きたというぐあいに見えないからだ。
 秋葉原の事件については、非正規雇用の不安定さが背景にあったと言われる。実際、犯人がもし正規雇用だったら事件を起こしていない可能性は高いだろう。ただ、いうまでもなく、同じ環境の人間がみな犯罪を犯すわけではないし、そもそもまとめサイトなどに載っている犯人とおぼしき人間が携帯サイトに残したかなりの量の書きこみを読むと、ルックスの良くない自分に彼女がいない不満が延々と書きつづられている。
 こうした感情は、若い男性にはありふれたものだ。加藤というこの男の不幸は、そうとは思えず、自分にだけふりかかった不幸と思ってしまったことにあるようにも見える。
 とはいえ、自分には親しい人間がいないと孤独感を嘆く記述が繰り返されているのはやはり目を引く。短い期間で派遣先が変われば、恋人どころか、同性の友人もできにくいだろう。そういう意味では、彼の置かれた孤独な環境が、彼の暴力衝動を抑えられるものではなかったということは少なくとも言えるだろう。
 しかし、ネットで犯人の行動の軌跡をいくら追ってみても、ほかの多くの人はやらないのになぜ彼だけがやったのかということについての答えはやはり出てきそうにない。
 その一方、事件から少し経った時点であった新聞社からの問いかけは、犯行の動機などといったこととは少し違った視点で、こちらは答えに近づくことぐらいはできそうに思えた。
 毎日新聞の記者からの問いかけは、「事件の現場で撮影するなどしてリアルタイムにネットで情報発信した人がいたことに対して、ネット上で評価する声がある一方で、『不謹慎だ』という議論が起こったが、それについてどう思うか」というものだった。
 何か事件があると、携帯で写真を撮ろうとする人がいるのは、こんどの事件に限ったことではない。野次馬が笑って見ているなどというのも、顰蹙を買う行為であることはまぬがれがたいけれど、ないことではない。人間は、誰しも突然やってくる非日常のできごとにとっさに対処はできず、また何のつながりもない被害者にただちに感情移入することもできず、なすすべもない(あるいはとっさに何をしたらいいかわからない)人間たちが、事件を他人ごととして、のんびりした日曜の日常の延長の行動をとってしまうというのはきわめてありうることだ。
 一方、事件があったことを知りつつテレビで見ているほうは、事件モードの気分になっている。その落差から、野次馬たちがあまりに不謹慎に見えるということは起こりがちである。

●「マスコミとネットの発信者は違う」のか
 
 事件現場では相当ひどいやり方で撮影する人間がいたというネットでの証言もあるので、たんに受けとり方だけの問題ではなかったのだと思うが、こんどの事件でことのほか不謹慎だという声が上がったとすれば、その理由の幾分かは、「秋葉原にいっぱいいる『カメラ小僧』たちならこうしたことをするはずだし、それが格好の話題になる」といった伝える側や見る側の先入観も加わってのことではなかったか。あらかじめそうした「期待」があったので、「それ見たことか」とばかりにステレオタイプの批判が起こったという側面はあったにちがいない。
 さらに、事件の現場でブログに書きこんでいるといったことだけならば、反発はそれほどなかったかもしれない。時と場合によっては撮られる側がきわめて押しつけがましく感じられるカメラという道具が使われたためにいよいよ不謹慎に感じられた、ということもあるだろう。
 しかしながら、撮影が不謹慎だとするならば、ではマスメディアがやれば不謹慎ではないのか、それはどう違うのか、という疑問がネットなどで出たのはいわば当然の成りゆきだった。
「マスメディアは、国民の知る権利を代表しているから」といった通り一遍の理由づけは、当のマスコミ関係者たちはともかく、それ以外の人間にとっては納得できる答えではない。
 ブログなどで情報発信をしている人は、こうした事件に遭遇した場合、ふだんアクセスしてくれる人に事件を伝えるのは、「稀な体験をした自分の役割なのかもしれない」といったふうに考えるようになってきた。つまり、「国民の知る権利を代表している」わけではないけれども、「いつもアクセスしてくれる読者・視聴者のために伝える」といったことは、(どこまではっきり意識しているかどうかはともかくとして)情報発信に熱心になっている人であればあるほど思うはずだ。
 一挙に大量の人に伝えるマスメディアのほうが効率はいいが、効率がいいメディアなら厚かましい撮影をしても許されるということがありえないのは、たとえば、「全国紙の記者は地方紙の記者よりも強引な取材をしても許される」などと思う人がいないことからも明らかだ。マスコミは許され、マスコミ以外は許されないということについて説得力のある論理を見出すことはもはやかなりむずかしい。

●理想的なメディア状況のはずが、なぜか非難囂々‥‥
 
 現場で情報発信した人に対して起こった批判に私がなぜとくに関心を持ったかというと、こうした情報発信の形は、期待されていたものでもあったからだ。
 たとえば、メディアの近未来を描いてメディア関係者などのあいだで話題になった「EPIC 2014」というショートムービーでは、グーグルとアマゾンが合併してグーグルゾンという会社を作りネットメディアを支配するというかなり暗いムードの結末になっていた。しかし翌年、同じ人々が「EPIC 2015」という続編を作った。そこではグーグルゾンによる中央集権的なメディア支配に代わって、人々が街で起こった事件を伝えあっている活気あふれる世界が付け足された。事件の現場に出くわした人々が伝えるのは望ましいことだという明確なメッセージが読みとれる明るいエンディングになっていた。
 あるいは、ウェラブル・コンピューターの父と呼ばれるスティーヴ・マンは、みんながカメラを付けて歩き撮影することで、権力から一方的に監視される状態を脱することができると考え、それを「シューティング・バック」(「撮影し返す」といった意味)と呼んだ。
「みんな」といってもいいぐらいに数多くの人々がカメラ付きの携帯電話を持ち歩き撮りまくっている08年の日本は、環境的にはもうすっかり、かつて夢見られた「メディアの理想郷」になっているわけだ。しかし、不幸なことに、それがいざ実現してみると、理想郷どころか、批判を招くようなことになっている。いったいそれはなぜなのだろうか。
 次週ももう少し考えてみたい。

afterword
 秋葉原の事件の犯人がどう思っていたかはわからないが、死刑判決確定後、短期間で処刑するのは、死にたい衝動に駆られて破滅的な事件を起こす人々に対する抑止になるどころか、正反対の反応を引き起こすだろう。

関連サイト
●「EPIC 2014」(http://probe.jp/EPIC2014/)。グーグルとアマゾンがひとつになって作り上げたコンピューター・システムにニューヨークタイムズなどは敗北して、ネットから下りてしまうという結末になっている。
●「EPIC 2015」(http://www.albinoblacksheep.com/flash/epic)。町中にいる人々が事件の発生を伝えあうメディア世界になっていて、青空がぽっかり開けている希望あふれるラストシーンに変わった。
●秋葉原殺傷魔事件のまとめサイト(http://www11.atwiki.jp/akb_080608/)。

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.540)

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