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2008.04.25

あっというまに名誉毀損の被告人

誰もが被害者になりうると同時に加害者にもなりうる。
著作権についてはこうした意味で関心が高くなったが、
名誉毀損についても、同じようなことが言える。

●ネットはもちろん、口を開けば起こる名誉毀損

 ネットでの名誉毀損裁判をきっかけに、名誉毀損に関する資料をあれこれ読んでみた。
 名誉毀損は、いろいろな意味で問題の多い法律だと、何人もの法律関係者が指摘している。
 名誉毀損にたいする賠償額は高額化しているが、被害者は、裁判に勝っても十分に報いられたようには思えない。その一方、メディアの萎縮効果も確実に起こっている。
 発信した情報がほんとうのことであっても名誉毀損にはなる。というよりも、ほんとうであればあるほど、名誉を傷つけた可能性は高い。具体的な損害がなくて、相手の「名誉感情」を傷つけたということでも名誉毀損は成立する。

 学校裏サイトでのいじめが深刻な問題になっているが、こうした中傷も、発言者を特定して訴えれば賠償請求できるケースだろう。解決策がなかなかないと言われているが、片っ端から名誉毀損訴訟が起こされ始めたら、親としては、もはや子どものプライバシーなどといってはいられない。悪質な書きこみであった場合には民事ではすまず、刑事事件になる可能性だってある。子どものケータイ使用の監視に必死になるはずだ。
 いじめられている子どもの親としては、子どもを裁判に巻きこむことにはなるし、訴訟の頻発が望ましいかどうかということはあるが、不当な扱いには断固戦うという姿勢を身につけさせるのも教育といえなくもない。

 『名誉毀損裁判』という本の冒頭では、童話「裸の王様」で、「王様は裸だ」と叫んだ子どもが名誉毀損になるかどうかを検討している。王様が裸だということは見ればわかるし、ほんとうのことではあるけれど、王様の社会的地位を下げたことは明らかで、訴えられる可能性があるというわけだ。
 このように、しゃべったことでも名誉毀損は成立する。この本でも、主婦の陰口が名誉毀損になって60万円の支払いが確定したことなどが書かれている。

 まあ、しゃべったことであればその場かぎりと言うことはあるわけだけど、ブログでもMixiでもケータイ・メールでもあとに残る。ネットの検索機能も充実し、訴訟を起こしやすい環境はととのっている。
 訴える側は、それを裁判所に示して、「名誉毀損だ!」と言えばいい。名誉毀損とされる表現はすでにあり、名誉毀損でないことを証明する責任は情報発信者の側にある。

●低俗雑誌なら、名誉毀損にはならない?

 昭和30年代に出た最高裁判例によって、名誉毀損かどうかは「一般読者の普通の注意と読み方」で判断すべきということになった。この基準の登場によって、笑い話のような判決が出たことが先の本で紹介されている。
 雑誌の裁判で、読者層が「30代から40代のサラリーマンあるいは自家営業者もしくは主婦らであることが認められ、特段に知的水準が高いとはいえないことに鑑みると」名誉毀損になるという判決が出たという。
 この判決に対しては、「読者をバカにしている」と、裁判所を名誉毀損で訴えることもできそうだ。

 またその逆に、ある夕刊紙は、読者がもっぱら通俗的な興味をそそる娯楽記事として読んでいるので社会的評価に響くものではないと主張して認められた。
 もっとも最高裁では、名誉毀損になるかどうかは読者構成によって決まるものではないという判断が出て、「一般読者」というのは個々のメディアの読者ではなくて、広く一般の読者を指す、ということになった。

 とはいえ、前回書いたネットの名誉毀損裁判で東京地裁の判決は、ネットでの個人の情報発信は信頼性が低いものと受けとめられていることや反論できることが名誉毀損にならない理由としてあげていた。そのメディアの「一般の利用者」がどんな人々でどう行動するかは、名誉毀損裁判において依然として重要な要素なのだろう。

●裁判官の「あたりはずれ」によって勝ち負けが変わる
 
 名誉毀損になるかどうかは、裁判官が、言論の自由についてどう考えているかといったことだけではなくて、裁判官の感覚によるところも大きいらしい。
 裁判官は、表現に慎重な人が多く、静かな生活を好むので、大げさな表現や揶揄(やゆ)を好まない。表現についての裁判官のこうした好みも反映していると、『名誉毀損裁判』には書かれている。
 裁判官の「あたりはずれ」によって勝ち負けが変わるというのは、ほかの裁判でもあることだが、とくに名誉毀損は基準があいまいで、裁判官の裁量による部分が多く、そうしたことがよりいっそう言えるようだ。
 
 こうした裁判官の判断には、世の中のムードも大きな影響をあたえている。
 世の中が、表現の自由は大事だと思えば、裁判所も名誉毀損の適用に慎重になる。しかし、多くの人にとって、表現の自由より名誉毀損やプライバシーの問題が切実な問題として感じられるならば、そうした方向の判決が出るようになる。
 リベラルなムードが強くなっていた60年代には表現の自由を尊重する判決が出たが、70年代になって反転したそうだ。

 名誉毀損裁判に勝っても賠償額が少ないことが問題視されてきた。
 アメリカでは名誉毀損の違法性の認定には慎重な一方で、悪質ということになれば厳重な制裁と手厚い救済をするが、日本はその逆だという。違法性を比較的簡単に認めるかわりに、救済を限定的にしてバランスをとってきたのだそうだ。
 こうした判断が崩れて賠償金の高額化が進んでいるのが、日本の現状らしい。金額だけ「アメリカ化」しているわけで、これでは情報発信者側の萎縮が起きてしまう。

 名誉毀損については、「現実の悪意の法理」というのがある。
 ウソであることを知っていたり、ウソかどうかを気にかけずに表現が行なわれたことを、訴えた側が証明しなければならないというものだ。日本の通常の名誉毀損裁判と立証責任が逆転する。
 アメリカでは、公務員はもちろん企業などの公的な存在に対する名誉毀損訴訟で認められている。しかし、日本の裁判ではほとんど採用されていない。

 名誉毀損というのは、人権にかかわる発想から生まれたように思われているが、じつは、権力側が批判を封じこめるために発達してきたものだ。
 公的な存在への適用は慎重になる必要があるということから、日本の刑法でも、公務員と「公務員の候補者」については特別の規定がある。企業についても、その社会的責任が問われていることだし、右の意味での「悪意」があったかどうかを名誉毀損の判断基準にすべきだろう。
 
 私人の名誉毀損については、十分な保護や救済が行なわれる必要があると思うが、その一方で、情報発信者の萎縮効果を避けるために、政治結社はもちろん、企業や宗教団体など影響力の大きな公的存在に対してはこうしたルールが必要だ。

afterword
名誉毀損対策をしっかりほどこした文章ばかりだと、どれを読んでも何が言いたいのかよくわからずおもしろくない、ということになるのは確かだ。メディアによって基準を少し変えるというのは、実際的な気もする。

参考図書
浜辺陽一郎『名誉毀損裁判―言論はどう裁かれるのか』 (平凡社新書)。「誰もが名誉毀損の加害者になりうる時代!」と帯のコピーに書かれている。この本は、新書で手軽に入手できるし、わかりやすく問題点が語られている。上でとりあげた事例などもおもにこの本のもの。
佃克彦『名誉毀損の法律実務』(弘文堂)。著者の弁護士は、報道被害に遭った人の救済に関心を持って多くの事件に関与してきたが、ここ数年、裁判所の判断が、表現の自由に対する配慮が欠ける傾向があると違和感を持ち、執筆したと書いている。多様な判例が紹介され、主張も説得力がある。

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.530)

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