« 完全に権威主義とさよならできる百科事典の作り方 | トップページ | 論争の嵐が吹き荒れる項目で知るウィキペディアの可能性 »

2007.11.16

ウィキペディアの使い方

ウィキペディアの記事はあてにならない、
という声もあるが、実際のところどう使うべきなのか。
そして、まだ汲みつくされていない可能性はないのか。

●ウィキペディアは学校では使ってはいけない?

 ウィキペディアは、いくつものポータルサイトやツールバーに組みこまれ、検索結果上位に出てくることが増えた。ネットレイティングスの調査によれば、月間利用者数は2ちゃんねるやユーチューブを上まわり、1500万人以上にもなるという。
  ウィキペディアのことを取り上げ始めたら、書きたいことが次から次へと出てきて、思いがけず、何回にもわたることになった。そろそろ終わりにしたいとは 思っているのだが、せっかく取り上げ始めたので、ウィキペディアをどう使えばいいのか、そしてその可能性はどんなところにあるのかを考えてみることにしよ う。

「誰が書いたのかわからないウィキペディアの記事は信用できない。学校などでは使ってはいけない」などとも言われている。しかし、一概にこう考えるのは誤りだ‥‥ということが、ウィキペディアをあれこれ見てきてわかってきた。
 ウィキペディアの記事には使い方がある。
  ウィキペディアの記事は、信頼できる情報源を選び、利用者が情報源にあたって検証できる形で記事を書くという方針を掲げている。ウィキペディアの記事を書 いた人間は誰だかわからないが、信頼度の高い情報源にもとづいて記事が書かれれば信頼できる記事ができるはずだ――というのがウィキペディアの考えだ。だ から、「誰が書いたかわからないから信頼できない」と考えるのではなく、きちんと出典があがっているかを確かめ、その出典にあたる。書かれていないことは まだあるかもしれないが、そこまですれば、少なくとも書かれていることについてはかなり信頼できるはずだ。

●ウィキペディアで信頼できる記事はどれ?

 また、信頼度が高いと判断できるウィキペディアの記事もある。
 その筆頭は、ウィキペディア自身について書かれた記事だ。なぜそういえるのか。それは、簡単な理屈だ。
  ウィキペディアの記事は、ウィキペディアのコアメンバーが見ている。ウィキペディアの各記事には、記事についての提案や問題提起をする「ノート」という ページが付いているが、そこを見れば、ウィキペディアの多くの記事がハードなディスカッションを経てできあがっていることがわかる。ウィキペディアをすぐ れた百科事典にしようと文字どおり骨身を削っている人たちが、少なからずいることが見てとれる。ビシバシ意見を戦わせていることがわかると、気軽な気持ち で書き直す気になれなくなってくるほどだが、こうした人たちの厳しい目を経て生き残っている記事はかなり信頼できるはずだ。

 前回、いろいろな人が議論をし、書き換えられた過程を経てできあがっている記事は信頼できるという理屈で、編集回数などにしたがって記事や文章を色分けして表示するというアイデアを紹介した。こうした考えが取り入れられていない今でもこの方法は使える。
 熱い議論が交わされたにちがいない項目はかなり信頼できると見なすことができるのではないか。

●ウィキペディアのリンクを使え

 ウィキペディアは、リンク集ではなくて百科事典なので、あくまでも文章化しようとしているが、信頼できる情報を手に入れたいということならば、役に立つのは、文章よりもむしろリンクだろう。
 ウィキペディアは信頼できる情報源を使うという方針なのだから、クリックひとつでたどれるそれらの文献を参照しない手はない。
 これほど広い分野について、できるだけ信頼度の高い情報源を選んでリンクを張ろうとしているサイトはほかにいない。
 学校などでも、「ウィキペディアは信頼できない」と教えるのではなくて、「ウィキペディアのリンクを使え」と教えるべきではないか。

●議論を見せる百科事典というのもありなのでは?

 もうひとつもっと利用価値が出てきそうであり、ネット百科の新たな可能性が感じられもするのは、「ノート」のページの議論である。
 「ノート」は記事本文の問題点の指摘や書きかえ提案などだが、その記事についてどういうクレームが付いたかというのは、じつは得がたい情報ではないか。

 これまでの百科事典はいわば「完成品」だった。各項目は、さまざまな議論が公平に目配りされ、なめされて、よくも悪くもきれいさっぱりした記述になっていた。しかし、本当に役に立つのはそうした記述なのか。
 いまのところ「ノート」は本文を作成するための議論の場所に過ぎず、このページ自体を見せることは意識していないようだが、そうしたことを考えてもいいのではないか。

 実際のところ、ウィキペディアは、論争になっているような項目でもかなりよくできている場合が多い。
 「靖国神社問題」とか「君が代」「新しい教科書を作る会」「慰安婦」などいかにも議論になりそうな項目は、しばしば編集合戦などが起きて「保護」扱いになる。しかし、少なくともこの原稿を書いている時点では、いずれも充実した記述になっている。
 激しい議論が行なわれている項目は、熱心な編集がなされている。だから充実した項目になっていても不思議はないし、さまざまな立場の人を納得させるために百科事典的な中立的記述になっていることも少なくない。

●「生きた百科事典」にするには?

 ただ、やっぱり争点となりそうな話、とくに現在、進行中のホットな記述については、百科事典の記事には馴染まないということで、ウィキペディアの コアメンバーたちから注意を促されていたりもしている。しかし、利用者としてみれば、まさにそのホットな点が読みたい、ということは多いのではないか。
 書き直しがむずかしい紙の百科事典では、事態が進行中のことは、時間が経って客観的に記述できるようになってから盛りこむのがふつうだ。しかし、書きかえが容易なネット百科ではそうした心配は無用だろう。

 客観性を得やすく、多くの人が納得しやすくもある科学技術関係の項目と、客観性とか中立とかが成り立ちにくい人文社会科学の項目では、そもそも記述の仕方が違っていてもいいのではないだろうか。
  文科系の分野では、どこに争点があるのかがとても重要だ。双方がカンカンガクガク議論している現状そのものが、その事項をもっともよく表現しているという ぐあいに考えてもいいのではないか。なまなましい議論を隠すのではなく、それをもっと見せる工夫をしてもいいように思う。

 実際のところ、ウィキペディアの記述のレベルはどんどん上がっている。項目数や新しい事項をとりあげるスピードも、もう紙の百科事典を上まわって いる。紙の百科事典を目標とする時期はもはや過ぎつつある。紙の百科事典を強く意識して方針が作られているが、もっと違ったあり方を本格的に考えてもいい ころではないか。

afterword
そろそろほかの話題に移りたいと思っているのだけれど、論争になっている項目を集中的に見始めたら意外なことに気がついて、「ウィキペディア研究」を続けたくなってきた。もう少しだけつきあっていただければ幸いです。

関連サイト
●ウィキペディアの「靖国神社問題」の項目。中立的な観点から疑問が出され、長期間、加筆や編集が凍結された「保護」の扱いになっていたが、かなりみごとな記事に仕上がっている。
●ウィキペディアの「新しい歴史教科書をつくる会」の項目。こちらも記述に疑義が出て「半保護」の扱いだが、充実した記述になっている。

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.508)

« 完全に権威主義とさよならできる百科事典の作り方 | トップページ | 論争の嵐が吹き荒れる項目で知るウィキペディアの可能性 »

ウィキペディア」カテゴリの記事

2014年8月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31