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2007.10.26

ウィキペディアはいかにして信頼性を確保しようとしているのだろう?

みんなが勝手に書くとメチャクチャになりそうだが、
ネット百科のウィキペディアは、
どうやって記述の信頼性を確保しようとしているのだろうか?

●リンク文書の貯蔵庫の信頼性を求めて

 いまのウェブのようにリンクで結ばれた文書貯蔵庫のアイデアをウェブ以前に思いついた人は何人かいる。そのひとりはテッド・ネルソンだ。彼は、「ザナドゥ」と名づけた文書貯蔵庫を作ろうとした。ザナドゥと現在のウェブの違いはいくつかあるが、なかでも大きいのは、文書の改変について履歴をたどれるかどうかということだ。
 いまのウェブは、もちろん特別の仕組みを導入しないかぎり、他人のサイトの文章をコピーして張りつけたり、それを変えたりしてもわからない。私もときどき自分のサイトの文章をそのままパクられていることに気づくが、ザナドゥは、オリジナルがどれで、それがどこで引用されて、どう編集されたかをすべてたどれるようにする、ということだった。このような仕組みがもしあれば、ネット上の文章の信頼性はたしかにもっと増しただろう。

 ウェブを作ったのはバーナーズ・リーという英国人だが、彼は彼でまた別のやり方で、ウェブの記述の信頼性を確保しようとしている。しかし、その実現はまだこれからで、ほんとうに実現するのか危ぶむ声もある。実際にできるとしても、まだかなり先のことだろう。

●ウィキペディアの信頼性

 ウェブ上の無料百科事典「ウィキペディア」もまた、別の形で記事の信頼度を確保しようとしている。
 ウィキペディアは誰でも書きこむことができ、不特定多数の人が加わることで作られる、ウェブ2・0を象徴する百科事典として知られている。しかし、みんなが勝手なことを書けばムチャクチャになることは明らかだ。ウィキペディアには、みんなが好き勝手に書きこんでいるイメージがあるが、それぞれの言語版ごとに自薦・他薦で管理者が選ばれて、方針に沿って記事についての議論を導き、グレードアップをはかる役を担っている。
 事典は多くの人がかかわるので、たいてい細かいルールが作られる。ただそれは、書名は『』で囲むとか、送りがなはどうするといった記述の仕方がほとんどで、内容は執筆者まかせのことが多い。従来の事典の執筆者は専門家ばかりだから、それでかまわないわけだ。しかし、誰が書くかわからないウィキペディアには、内容に関するルールもある。
 前回紹介したような「自分自身の記事をつくらない」などは「考慮すべきガイドライン」で、「多くの利用者が基本的に同意しており、従うことが推奨されますが、公式な方針ではありません」と書かれている。一方、「多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべき」というもっと拘束力の強い「公式な方針」もある。「礼儀を忘れない」とか「個人攻撃はしない」などの行動についての方針と、編集行為を凍結させる「保護」や削除、管理者の解任に関する方針、それに内容に関する方針などがある。

 記述の信頼性をどう確保するかについては、3つの方針が核になっている。「中立的な観点」と「検証可能性」「独自研究は載せない」の3つだ。これらの方針については、基本的に日本語版も英語版もほぼ共通だ。
 方針を示すこの3つのキーワードは当たり前のことのようだが、その説明を読むと、不特定多数の人が加わることでコンテンツができていくウェブ2・0の叡知が詰まっている。「みんなの知恵は案外正しい」などと根拠なしに言われると、「ほんと?」と言いたくなったりもするが、いかに信頼性を確保するかについてのウィキペディアの苦闘のようすを見ると、「大衆の叡知」のようなものが確実に生まれつつあることを実感させられる。

●「中立なんてありえない!」という人のためのFAQ

「中立などというけれど、大なり小なり人の意見は偏っている。中立とか客観的などというのは無理だ」といったありがちなイチャモンに対する回答も、「中立的な観点」のページには書かれている。
 これは、「もっともよくある批判」で「もっともよくある誤解」でもあるという。中立というのは実際的な態度を意味していて、論争中の事柄は、論争に参加するのではなくて、論争を描写することに最善を尽くすべきだという。すべての観点に好意的で、できるだけ完全な形で論争を描写できるのかはたしかに問題だが、有能な学者や百科事典執筆者、教科書の著者、ジャーナリストは現実にやっている、とも書かれている。
 人種差別のような共感できない記述についてはどうするのか。中立的に書けるのか。
 その場合は、特定の人物や集団の考えとして書けばいい、と説明している。「○○集団はこういった人種差別的な考えを持っている」といったふうに書けばいい、というわけだ。「嫌悪感をひきおこすような見方に対する強力な反論をフェアに説明すること」は禁止されていないとも注意喚起している。このように偏った見方もただちに削除してしまうのではなくて、妥当な情報を活かす形で編集すべきだという。たしかに内容を豊かにするには、必要な心得だろう。
「独自研究は載せない」は、たとえばアインシュタインが自分の研究を、ほかで発表するまえにウィキペディアで記事にしようとしてもダメ、ということだ。ジャーナリストがスクープをウィキペディアで発表することも認められない。
「独自研究」という言葉については、わかりにくい日本語訳なので「独自の調査」とすべきだという議論もあったようだ。原語は「リサーチ」なので研究も調査も含むだろう。

●意外に保守的なウィキペディアの方針

 じっくりウィキペディアの方針を読んで少々意外だったのは、「みんな参加型」の開放的な百科事典であるにもかかわらず、いろいろな意味で「保守的」であるということだ。斬新な発明・発見をいの一番に載せるなどということは望まず、評価の定まったことを載せたい、という方向性がはっきりと見てとれる。
 なぜそうなのか、理由ははっきりしている。ウィキペディアは百科事典だからだ。新奇さよりも、手堅い記述が求められている。
 しかし、誰だかわからない人が思い思いに書くのにそんなことができるのか、と誰しも思う。中立的かどうかといったことには、多少とも主観が混ざらざるをえないと思われるが、それを補うのが3つめの方針「検証可能性」だろう。これはかなり客観的にわかる。要するに、信頼できる情報源をきちんと示しているかどうかということだからだ。
 中立的な観点で書くとか、「独自研究は載せない」つまり確立されていないことは盛りこまない、といったルールは、これまでの百科事典でもあった。しかし「検証可能性」は、ネット上のウェブ2・0型百科事典ならではのものだろう。じっくり読んでみると、かなりユニークだ。次回はそれについて書くことにしよう。

afterword
ウィキペディアの数多くの記事が論争になっている。そのことは、「ノート」ページをいくつか開いてみればよくわかる。「管理者」の作業のたいへんさが忍ばれる。日本語版には50人ほどいるようだ。

関連サイト
テッド・ネルソンのサイト
ザナドゥ・プロジェクトのサイト。ザナドゥのサンプル文書をダウンロードできる。
ウィキペディア全体の編集方針をまとめている「基本方針とガイドライン」の項目。ウィキペディアは、検索してヒットした項目だけ見て終わり、ということが多いが、こうした項目も覗いてみるとおもしろい。

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.505)

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