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2007.09.28

みんなが情報発信者というのはどういうことなのか

「ふつうの人」がどんどん「取材」をし、
ネットで公開し始めたのがこの10年の変化だ。
ただ、そこには微妙な違和感を感じもする‥‥

●誰にでも情報は平等に開かれている?

 連載が500回目になったのを機会に、ここ10年のネットの変化を振り返っている。今回は、マスメディアとネットのかかわりについて書くことにしよう。
  ジャーナリストというのは、国民の「知る権利」を代表しているということで、いわば特権を持って取材することが許されている存在だ。私もジャーナリストと 名乗って取材をすることもあるが、もともと新聞やテレビといった正統的なマスメディア組織で働いていたわけでもなくフリーの身で、特権を持って取材すると いうのは、正直なところどこか居心地が悪い。ふつうの人がふつうに生活している範囲で出会える情報をもとにしてものごとを考えるべきではないかという気も するのだ。
 さらにいえば、特別の手段を使わなければアクセスできないのであれば、それは情報の公開のされ方のほうがおかしいのではないかと思う ことも多い。たとえば、親しい政治記者にしか流さない政治家の情報などというのはどこかいかがわしいし、企業情報などにしても、取材記者にだけ話すのでは なくて、広く公開すべきだろう。
 もちろん、たとえば戦場の情報を日常生活の範囲で得るというのは、自分のいるところが戦場にでもならないかぎり 無理だ。だから、時と場合にはよるだろうし、苦労の多い取材をしたジャーナリストに敬意を表する気持ちはもちろんあるのだけれど、みんながみんな同じやり 方をする必要があるとも思えない。
 取材をするとしても、事実そのものよりも、自分をいわば実験台として取材対象について何を感じ何を考えたかを伝えることのほうに興味がある。アメリカでかつてニュージャーナリズムと呼ばれて活動していた人たちにはそういう傾向があった。
  われわれが事件のことを知るのは、これまではマスメディアを介してのことだった。インターネットは直接民主主義を可能にする装置のようにいわれることもあ るが、政治的決定に参加する第一歩は、特権がなくても幅広く、できるかぎり一次情報に近い深い情報を得られることにかかっている。ことさらに「取材」の特 権を使わなくても、判断できる情報を得られることが必要だ。実際のところ、ネットにはあまり顧みられないものの注目すべき膨大な情報が眠っている。ブログ やSNSなどでとりあげられるのもごく一部で、しかもメディア・サイトの情報が多い。海外の情報も少ない。限られた情報源のニュースが、日本のネットのな かをものすごいスピードで回転しているといった印象がすることもある。

●「ふつうの情報」では満足できなくなってきた

 私もそうだからたぶん同じように感じている人も多いのだと思うが、どうにも気分が悪いのは、マスメディア関係者はみな知っているけれど、外部には 出ないといったたぐいの情報だ。もちろん容疑が固まっていない被疑者の情報とか、プライバシーにかかわる場合など、もっともな理由があって出せないことも 多いわけだが、情報の受け手は、どこかごまかされているような感じを受ける。
 そうしたこともあってのことだと思うが、ふつうにアクセスできる手 段を使って情報を得ることでは満足しない「ふつうの人たち(つまりプロのジャーナリストではない人たち)」が増えてきたように思う。そして、ネットの情報 発信が、マスメディア報道のスタイルに接近し始めている。
 ホットな事件が起きると、ネットで渦中の人物の情報が探し回られる。電話番号や住所などのリアルな情報を発見し、電話をかけて「取材」をしたり、写真を撮る「ふつうの人々」も現れた。
  ウェブ上の百科事典「ウィキペディア」では、「電突(電凸)」は「電話突撃」ないし「電話突撃取材」の短縮言葉で、「企業・宗教団体・公的機関・政治家・ 政党などに対して電話し、それらの組織の活動(主に広報・報道など)について『組織としての意見を問いただす』」ことで、「『突撃』の語が示すとおり、電 話発信者は攻撃的意図を持っていることが多い。電話を受けた担当者は該当問題に精通しているとは限らないため、不適切な応答内容がインターネット上のサイ トに転載され、新たな問題を引き起こす場合がある」と書かれている。
 電突されるのはここに書かれているような組織ばかりではない。事件の渦中に ある人はみな対象になりうる。事件の渦中の人はみな公的な人物というマスメディアの悪しき視点も踏襲されている。そして、この場合の「事件」はネットの一 部で話題になっているだけの事件ということもありうる。
 こうした変化が意味しているのは、良くも悪くも、ふつうの人々がマスメディアと同じ振る 舞いを始めたということだろう。メディア・スクラムというのは、事件の渦中の人をメディアが追い回し脅威を与える現象をいうが、メディア・スクラムに参加 するのはいまやマスメディアだけではない。「報道被害」は、ネットという情報装置を手に入れた「ふつうの人々」によっても起こるようになった。

●情報伝達者がなぜ裁判官になるのか

 04年にネットで公開されたアメリカのショートムービー「EPIC2014」は、グーグルとアマゾンが合併して生み出されたコンピューター・シス テムが支配するメディアの暗い近未来を描いて評判になった。翌年公開された改訂版「EPIC2015」ではうってかわり、カメラとGPSが付いたiPod で不特定多数の人がニュースを送りあうエンディングが付け加わった。草の根メディアの誕生を示す希望が感じられるものになった。
 コンピュー ター・システムが支配する中央集権的なネット・メディアよりも草の根的なメディアのほうがハッピーな感じがするのは確かだが、では、「電突」とはどう違う のか。どちらも草の根の情報発信だが、電突を評価するかどうかはかなり意見が分かれるにちがいない。しかし、取材対象者にとって強引に思えるジャーナリス トの突撃取材が許されるなら、なぜ電突はいけないのか。この問いに答えるのはかなりむずかしいが、少なくともこういうことは言えるのではないか。
「EPIC2015」 の草の根メディアがハッピーに見えるのは、身のまわりのニュースを送りあっているからだ。それに対し、電突に顔をしかめる人がいるのは、先のウィキペディ アの記述にもあるとおり「攻撃性」があるからだろう。攻撃し、さらにネット上で一種の「裁き」が行なわれる。法律などの公的な仕組みを経ずに裁いてしまう という側面は、もちろんマスメディアにもある。なぜそうしたことになるのかといえば、客観的な情報として伝えられるからだ。それによって情報を伝える側が 断罪する力を持つ絶対的正義になっていく。しかし、自分が体験したことを主観的に伝える場合にはそうしたことは起こりにくい。そのあたりがハッピーな情報 伝達に見えるかどうかの分かれ目のひとつになっているように思う。

afterword
10年前には、活字文化がそれなりに尊重される一方で、ネットはいかがわしく見られたが、いまではネットにあがった情報のほうが伝わりやすい傾向も出てきた。本の情報にもこんなにおもしろいものがあると強調したい気もし始めた。

関連サイト
ウィキペディアの「電突」のページ。もっと古くからありそうな気がするが、「2004年後半頃からインターネットスラングとして定着した感がある」、と書かれている。
●草の根メディアの新たな誕生を示す2015年が追加された「EPIC2015」

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.501)

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