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2006.12.29

2006年は時代の変わり目だった?

今年もいよいよ終わり。
年末でもあるし、
今回は、大きな流れを振り返ってみることにしよう。
少し長い視点で見ると、時代の変化がわかる?

●けっこう大きな変化をもたらしたこの5年

 今年もいよいよ終わり。
 毎年、同じように年が暮れ、また新しい年がやってくる。
 それについてはとくに感動もないけれど、この5年ぐらいで、世の中はずいぶん変わった気がする。
 9・11のテロがあったのは5年前の2001年のことだった。それ以来、世界の雰囲気はがらっと変わった。ブッシュ政権の対応のまずさもあって、テロの恐怖は消えず、険しい対立の炎が世界各地でかきたてられている。
 そしてこの5年は、小泉政権の時代でもあった。小泉政権は、いろいろな意味で日本社会の限界を見せつけた。
  良きにつけ悪しきにつけはっきり物を言った小泉首相でさえも、アメリカに対しては、従うことが最良の国益なのだという日本の限界を表わした。もうひとつ、 小泉政権の時代にはっきりしてきたのは、日本は、グローバリズムの波にはあらがえず、過酷な市場経済に呑みこまれるしかない、と覚悟を決めてしまったよう だということだ。
 グローバリズムについて、「悪循環の連鎖」だとまえにこのコラムで書いた。日本も、急成長しているアジアの国の労働者のむこう を張って、低賃金や長時間労働をしなければならなくなった。グローバリズムは、先進国による後進国の搾取ももたらすが、非先進国の一部の労働者の賃金を上 げる働きもする。世界的規模で見ると、たくさん賃金をもらっていた国の少なからぬ労働者が貧しくなった一方、貧しかった国のなかには、それまでより高い賃 金をもらう労働者が出てきた。
 日本で働く多くの人には何の救いにもならないカラクリだが、格差社会の根っこには、世界的規模での格差が先進諸国 のなかに持ちこまれ始めたということがある。世界的規模での貧富の差がなくなれば問題は解決するが、そうした時代は、少なくともわれわれが生きているあい だはやって来ないだろうし、もしかすると、そうした時代はずっと来ないのかもしれない。いまさら国境に壁を作るというわけにもいかないし、となれば、結局 のところ、一人一人がいかに生き延びるかを考えるより仕方がない、ということになるのだろうか。そうしたことを考えさせられた5年間でもあったと思う。

●世間の意見はまっぷたつ

 私は、もともと政治的に右でも左でもなくて、というよりも政治にあまり関心がなかった。しかし、右でも左でもないと思っていても、前と同じところにいれば、自然とだんだん左寄りになっていってしまう。その変化はほんとうに速い。ほとんど節操がないといってもいい速さだ。
「かつてあたりまえのように言われていたこと」には、たしかに妙なことも多かった。それが修正されるのは当然だろう。ただ時代が変わったというだけで、多くの人が考えをあっさり変えているようなのはどうにも理解できない。
 たとえば公立学校で、国旗掲揚や国歌斉唱を強制し、反対する教師は処罰するなどということもそのひとつだ。国旗掲揚や国歌斉唱を強制することに対する反発は、かつてからすると考えられないぐらいにない。
  私は、国旗掲揚や国歌斉唱をしたければすればいいし、いやだというなら、それはそれでまたいいと思う。反対する教師がいれば、生徒はなぜ反対するのかを考 える。反対の人がいるのにそうした考えがないかのように振る舞わせるのは偽善的で、非教育的でもあると思う。個性とか多様性が重要と言っているのに、何で みんな同じにしなければならないんだ、と思う。
 学生に尋ねると、入学式や卒業式で国旗掲揚や国歌斉唱を強制してもやるべきだと思っている割合は そう多くない。どっちでもいいんじゃないかと思っている。サッカーを見に行って、みんなで国旗をふったのは気持ちよかったから国旗掲揚賛成などと、あっけ らかんとした意見も驚くほど多い。
 どっちでもいいんじゃないかというのは理解できるのだが、違うのはそこから先で、「どっちでもいいんだから、国旗掲揚や国歌斉唱にあえて反対する必要はないじゃないか」という結論になるらしい。
 なるほど‥‥と感心していていいのかどうかはわからないが、そういう考えなのか、と驚きはした。
  聞いてみたわけではないけれど、おそらく大学の先生に、「入学式や卒業式で国旗掲揚や国歌斉唱を強制してもすべきだと思いますか」と聞けば、すべきでない という意見が多いだろう。また、メディア関係者に聞いても、同様の傾向はあると思う。その一方、学生や、街を行くサラリーマンに尋ねると、正反対の結果に なるのではないか。
 国旗掲揚や国歌斉唱に賛成・反対以上に問題なのは、その激しい意識の分裂のほうだろう。そうしたことは、ネットがなければお そらくそれほどはっきりとは感じられなかっただろうが、ネットではそうした分裂が、マスコミに対する嫌悪などの形で、しばしばはっきりと浮かび上がる。以 前のようなイデオロギーの対立がないにもかかわらず、なぜそうなっているのか。そうしたことが強く意識され始めたのもこの5年の変化だ。

●ここ数十年の変化

 前にも少し書いたことだが、70年の大阪万博ぐらいまでは科学の明るい未来が感じられ、戦後民主主義的な発想がまだ社会に浸透していた。それに対 して60年代末に全共闘世代が疑問を突きつけたが、それはまだ戦後民主主義が生き残っていたからだろう。その後70年代になって、オイルショックやドル ショック、公害問題、過激派による爆弾事件などが起こり、明るい未来が信じられなくなってきた。そして、80年代には、世界の終末を背景にしたマンガやア ニメ、演劇が増えた。少し早く世紀末的な終末観がやってきたわけだ。80年代の終わりにはバブル契機になり、世の中はやたらにぎやかになったが、明るく なったというより「狂乱」という言葉のほうがふさわしかった。
 90年代のバブル崩壊後、「失われた10年」になった。しかし、ネットが登場した 後半からは、ひさびさに科学技術に希望が感じられもした。IT以外にも、ゲノム科学にナノテクと新たな科学の胎動が感じられ、本欄でも年の初めには「今年 注目される科学の動き」みたいなことをかなり意識的にとりあげた。
 90年代末からは、硬直した社会のヒエラルキーが崩れ始めた。IT長者の若者 が出てきて、老人支配の社会が崩れていった。小泉政権は、そうした社会秩序の破壊に明らかに力を貸した。インターネットと小泉政権の誕生にはもちろん直接 の関係は何もないが、とてもそうとは思えないほど、小泉政権はインターネット的な政権だった。小泉自民党がホリエモンを応援したのは、そういう意味では偶 然ではありえない。
 そして、今年。ホリエモンが逮捕され、小泉政権が終わった。このふたつが起こったのはほんとうに偶然なのか。またまた時代が変わることを物語っているのではないだろうか。

afterword
ウェブの発展を楽観的な視点から描いて見せた今年のベストセラー『ウェブ進化論』は、ネットによってヒエラルキーが壊れていくこの5年の変化を象徴するような本だったと思う。このあと、いったい何がやってくるのだろう?

関連サイト
小泉内閣の5年間を、象徴しているウェブ・ページは何か考えてみた。小泉メルマガに比べれば話題にならなかったけれど、タレントも起用した多チャンネルの「政府インターネット・テレビ」の妙な派手さは印象的だった。

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.465)

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