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2006.10.06

双方向であればあるほどメディアはよくなる、か?

コメント欄を閉じるなど、ネットの双方向性を
セーブしながら利用するのは間違いなのか。新しい
ネットメディアに起こった騒ぎが考えさせること。

●参加型メディアの落とし穴

 韓国発の有名ネット・メディア「オーマイニュース」の日本版は誕生する前からネットの手荒い洗礼を受けた。騒ぎそのものはそれほど興味深いとは思えなかったが、この事件からは、私がかねがね気になっていたことも浮かび上がってきた。

「騒ぎ」のひとつは編集長の発言によって起こった。編集長はテレビ・キャスターの鳥越俊太郎氏。次のような発言を含むインタヴューが、ネット・メディアの「ITmedia」に掲載された。
「2ちゃんねるはどちらかというと、ネガティブ情報の方が多い。人間の負の部分のはけ口だから、ゴミためとしてあっても仕方ない。オーマイニュースはゴミためでは困る。日本の社会を良くしたい。日本を変えるための1つの場にしたいという気持ちがある」。
 2ちゃんねるをゴミためと言ったと反発が起き、炎上する騒ぎになった。

 また、8月23日には、オーマイニュース編集委員の佐々木俊尚氏から、「オーマイニュースはいったいどのような立ち位置であろうとしているのか。『開店準備中ブログ』のこれまでの記事を読むところ、明らかに戦後民主主義的な市民運動スタンスで記事を書いているとしか思えないが、もしその立場を貫くのであれば、その意志は明確にすべきではないだろうか」という「苦言」が当のオーマイニュースの準備ブログで公開された。

 こうした事件もあり、9月2日には、公開フォーラムが早稲田大学で開催された。鳥越編集長は、2ちゃんねる全部がゴミためと言ったつもりはなくて、「一部の」と断わったはずだと釈明した。それに対して、「一部」と鳥越氏は言っていないという記事が出るなど、話がますますややこしくなってしまった。

 さらに、創刊初日の8月28日には、「インターネット上ではびこる浅はかなナショナリズム」というタイトルの市民記者の記事が掲載される事件もあった。韓国批判の本『嫌韓流』を「インターネットの申し子とも言うべきひとつの書籍」として取り上げ、「日本の侵略責任をすべて放り投げるようななんとも横暴な論理」だが、「インターネットを利用する若者の間では当たり前の説となって」いて、とくに「悪名高い『2ちゃんねる』」でそう主張されていると批判した。
 この記事に対する反論がたちまちコメント欄に並び、炎上状態になった。ところが、この記事は、いかにもオーマイニュースが好みそうな論調で投稿した「釣り記事」だと投稿者が「暴露」した。9月1日には同じ市民記者の名前で、「オーマイニュースジャパン初の要注意記者が指定される」という文章が出た。そこにはこう書かれている。「先日、創刊したばかりのオーマイニュースを賑わせた記事を書いた記者が、編集局側から要注意対象に分類された、と朝鮮日報が報じた。この記者は左寄りの記事をわざと寄稿し、それを掲載したオーマイニュースに対して2ちゃんねる住人などが大騒ぎした。記者は掲載された翌日から、『釣り宣言』を出しており、それに関連して新たな記事まで登場するという炎上に炎上を重ねる事態となった」。

 この記事は、「ニュースのたね」と題されたコーナーに掲載されている。「『ニュースのたね』ページに掲載されている記事は、オーマイニュースによる編集作業を経ていない、市民記者から投稿されたままの記事」だとオーマイニュースは断わっている。書かれている内容を編集部が確認したわけではなく、オーサライズされていないし、内容の真偽もわからない。自分の話のはずなのに、他人事のように書いているのも不思議だが、ともかくわざと投稿した記事だということを強調したいようだ。
 編集部はもちろん、まともに反応した人々もおちょくっていることになり、不毛な話だと思うが、オーマイニュースが困ればそれでいいということなのか、だまされて批判のコメントを書いた人々も怒っている様子はない。つまらないことをするものだと思うが、ともかくオーマイニュースという韓国発のメディアは、からかってみたくなる対象ということなのだろう。

●ブロガーの生き残る道

 このところ「参加型ジャーナリズム」ということが言われ、新聞社などのサイトでも記者ブログを設けることがトレンドになってきた。一方的に情報を流してきたメディアが双方向性を持つのは、とりあえず悪いことではないように思う。しかし、こうした流れはいずれ、ネット・メディアは、ネット世論に反することをどこまで書けるのかという問題にぶちあたらずにはいない。というよりも、そうした問題はすでにいたるところで起きている。
 それはメディアだけでなく、個人がブログなどで発信する場合でも同じだ。何か書こうとしたときに、ネットの多数派の神経を逆なでする内容であることに気づく。ならば、書くのはやめておこうか、ということはすでによくあることだろう。

 ブロガーには、不愉快な思いまでして書く義務はないが、それを仕事にしているジャーナリストは、不愉快な目に遭うとしても、言うべきことは言わなければならない、ということになる。立派なメディアのジャーナリストならば「姑息な配慮」はしないと思うかもしれないが、第二次世界大戦中のこの国のマスメディアの歴史は、圧力に抗することができなかったことを明かしている。

 さらに現在、新聞では、記事に責任を負うということで署名記事にする動きが強まっている。いいことのように思えるが、署名記事にするということは、書き手の自己責任の部分が事実上、大きくなることでもある。批判されるときには、(無署名記事であればメディアが批判されるわけだが)記者が名指しで批判される。つまりメディアの「連帯責任」の部分が軽くなり、書き手の受けるプレッシャーはかつてなく大きなものになっている。記者ブログのような形でネットで書けば、反応はますます直接的・個人的になる。内容が正しくても、ジャーナリストも人間である以上、起こる反応をまったく気にせず書き続けろというほうが無理だろう。わかりやすく言えば、炎上すれば、誰だって書き続けるのはイヤになる。

 このところ私が思うのは、「参加型にすればメディアはよくなる」と素朴に信じるのは考えものではないか、ということだ。もはや誰でも不特定多数に情報発信はでき、匿名の個人でもへたなメディア以上の影響力を持つことができる。つまり、メディア批判のメカニズムはすでにできているのだ。また、ネットでは、どんなに偉そうなメディアの記事だろうと、つまらなければアクセスされない。そうした批判のメカニズムもある。

 個人ブログでも記者ブログでも、コメント欄やトラックバックが機能としてあるからといって、使わなければならないというものでもないはずだ。ブログというツールをどう使うのが自分にとっていいのか、どうしたらイヤになって放棄したりせずに言いたいことを言い続けられるのかということも考えて、ツールの使い方を決めるべきだと思う(もちろんそれが受け入れられなければ読まれなくなるという批評は受けるわけだ)。これは一見あたりまえのようでいながら、かならずしも簡単なことではない。コメント欄を閉じたり、トラックバックを制限したりすることに抵抗を感じるのがふつうだからだ。

 これまでのメディアは、権力といかにして戦うかが大きなテーマだった。しかし、これからはそればかりでなく、強力な情報発信力と影響力を持ち、感情的な反発もときに示すネット世論とどういう距離をとるかが、メディアでも個人の情報発信者でも同じぐらい重要なことになってきていると思う。

   *

 メディアがネットに進出し、ネット世論に敏感になっていけばいくほど、右に書いたことは大きな問題になるはずだ。いずれネット外の「アンダーグラウンド」だけの言論というのも生まれる可能性があると思う。

関連サイト
9月2日に早稲田大学で開かれたオーマイニュースのフォーラムの音声ファイルが掲載されている当日のパネラーのひとり山口浩氏のブログ
●2ちゃんねるを誹謗しているとネットで議論が起きた『ITMedia』による鳥越俊太郎オーマイニュース編集長のインタヴュー

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.453)

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