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2006.06.16

(今ふう)ジャーナリズムとは何か

「ジャーナリズムとは何か」などということに
一般の人が興味があるとは信じられないのだけど、
なぜかネットでしばしば熱っぽい議論になっている。

●ジャーナリズムは娯楽機関?

 どういうめぐりあわせなのかわからないけど、このところジャーナリズムとは何かを考えなければならないことが続いている。
 大学などに呼ばれて、ジャーナリズムについてしゃべるように言われたり、ジャーナリズムについての研究会に参加することになったり、あるいは、「おまえはジャーナリストじゃない」とネットで怒られたりと、まあそんな具合だ。

 実際のところ、「おまえはジャーナリストじゃない」と言われれば、ああそうかも、と思う。興味のあることを書いているだけなので、ジャーナリズム かどうかを書くときの基準にしているわけではないからだ。だから、そんなに重要なことのように思えない。だけど、なぜか一般の人にもこうした問題は関心が あるようで、ネットでもしばしば熱っぽく議論している。

 私も仕方なくジャーナリストと名乗ることもある(というとだいたい怒られるんだけど、怒ろうと思った方は、もう少し我慢して読んでください)。
 正直なところ、どんな肩書きにしても名乗るのは苦痛だ。
 編集部や主催者側がとりあえず何かつけてくれたら、もっけの幸いとそれに乗ることにしている。
「興味のあることを書いているだけ」ですましてくれればほんとはとてもありがたいのだけど、世の中は(当然ながら)それですませてはくれず、一単語で何か肩書きめいたことをいう必要が出てくる。
 そして、さらに困ったことには、ジャーナリストとかジャーナリズムという言葉には、どうも一般の人たちにものすごい思い入れがあるようなのだ。

 でも、たとえば、いまこの原稿を書いているパソコンにあるマイクロソフトの辞書ソフト「ブックシェルフ」に収録されている三省堂の『新明解国語辞典』で「ジャーナリズム」という項目を引くと、次のような定義が出てくる。

1 新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどの、報道や娯楽機関(の事業)。
2 報道や娯楽機関によって作られる、大衆的な文化。

 あまりにミもフタもなくて、唖然とする。
 崇高な使命を感じさせるものは何もない(何せ「娯楽機関」でもあるというのだから)。
 ここまで言い切っている辞書は珍しいと思うけど、素っ気ない定義であることはどの辞書でも同じだ。
 たとえば『広辞苑』の「ジャーナリズム」は、

新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどで時事的な問題の報道・解説・批評などを行う活動。また、その事業・組織。

だし、もうひとつ手もとにある小学館の大きな辞書『国語大辞典』でもほとんど変わらない。
 まるで「あれこれ書くと揉めるから簡単にすませておこう」と辞書編纂者たちがこぞって考えたかのようにアイソのない定義になっている。

 ただし、一般の人の頭の中では、ジャーナリズムはこんな安易なものではすまない。もっとちゃんとしていなければならないように思っているし、だからジャーナリストもそれ相応の存在でなければすまなくなっている。
 そういう隔たりに気づいて、最近では、ジャーナリストと名乗ることがかなりためらわれるし、できるだけ自分からはそう名乗らないようにしている。

 とはいえ、90年代前半に文章を書き始めたときには、かなり意識的にジャーナリストとかノンフィクション作家と名乗った。実際、とりあえずノンフィクションとしか呼びようのない本を書いていたこともあったが、そう名乗った一番の理由は、取材の仕事をしたかったからだ。

 それまでは「詩の雑誌」と一応呼ばれる雑誌の編集者をしていた。その界隈では、「詩を一編も書いていなくても、自分で詩人と名乗ればそれは詩人」とまことしやかに言われていた。
 実際、詩というのは、文字に書きとめる以前に、存在自体が詩(ポエム)という人も(たまには)いる。
 でも、存在自体が詩かどうかに基準はないから、ともかく名乗ることは誰でもできるわけだ。

 まあそうやって名乗ることで自分を追いこんでいくというのは、どんな仕事でもあることだろう。私の場合も、実際に取材の仕事もいくつか始めて、しばらくたつと、ジャーナリストと名乗っても、不思議に思う人はいなくなった。

 ところが、である。そこにインターネットが登場した。インターネットによって人生が変わった人はかなりいると思うが、私もまちがいなくその一人だ。
 取材の仕事をしようと思ってジャーナリストを名乗ったものの、もともと事実そのものに興味があるわけではなくて、その事実が意味していることに興味があった。だから事実に対する欲望は、インターネットで十分満足させられた。
 年々ものすごい勢いで増えていく情報のありように触れることができるのはおもしろい体験だったし、それに、これからの社会を変えていくなまなましい「現場」は、まさにこのネットの中にあるように見えた。

 そう思い始めたときに、本誌の連載をやることになった。インターネットを使えば、マスメディアのジャーナリストのような特権がなくても、ちょっと 根気よく探して読む気があれば、誰でも新奇な事実にアクセスできる。まったく平等だ。それも、二次情報ではなくて、しばしば当事者自身が書いたり、しゃ べったりしたことにそのままアクセスできる。

●「これはジャーナリズムじゃない」

 そうやって始まった連載だけど、人々のジャーナリズムのイメージとはやはり齟齬がある。まず、記述が主観的だ(今回などはほとんど私の話だし(笑))。

 この点は、おそらく一般の人よりも、新聞社などにいるプロのジャーナリストたちが、「このコラムはジャーナリズムではない」と言うだろう。新聞社やテレビなどでは、主観を交えず客観的に報道しなければならない、と教えられるからだ。
 でも、「客観的な事実などあるのか。何だかんだ言っても、結局は主観的じゃないか」という疑問が、長いジャーナリズムの歴史の中では繰り返し突きつけられている。
 それに対しては、「いやいや、結局は主観的であるにしても、できるかぎり客観的であろうとすることが大事なんだ」などと果てしない議論が繰り広げられている。

 もうひとつ「これはジャーナリズムじゃない」と言われる理由は、ジャーナリストというのは、取材する人のことだと思われているからだ。そういう私にしても「ジャーナリスト=取材する人」だと思っていたから、そう名乗ることにした。
 ところが、先に見た辞書のように、ジャーナリズムやジャーナリストの定義には、そんなことはひと言も書かれてはいない。取材しなきゃジャーナリストではないのかというと、かならずしもそうではないわけだ。

 すでに書いたように、ジャーナリズムというのは、「時事的な問題の報道・解説・批評などを行う活動」なわけだから、すぐれていようがいまいが、ジャーナリズムだ。
 ただ、世間がやっぱりジャーナリズムというのはすぐれたもののように思っているのだとすれば、(辞書の定義はともかく)あいかわらずそう見られ続けるにちがいない。

 では、ジャーナリズムとは結局何だと思えばいいのかといえば、ミもフタもないけれど、結局のところ、それは内容次第、ということになるのではない か。(主観的だろうが、ネットを使おうが)人々がその仕事はジャーナリズムに値すると思えばそれはジャーナリズムで、そうでないと思えば、それはジャーナ リズムではない。

 他人につけられた肩書きをそのまま使うという自分のやり方をとくに正当化しようとは思わないけれど、もしジャーナリズムという言葉そのものに価値判断を含めようとするならば、結局のところ、ジャーナリストかどうかは、他人に決めてもらうしかないのではなかろうか。

       *

 肩書きの何もない名刺を使い始めてもうずいぶんになる。90年代前半に使い始めたときにはかなり怪訝な目で見られたが、どういうわけか、いまはそれほどでもない。それだけ不思議な仕事をしている人が増えた、ということだろうか。

後日談
 驚いたことに、「ジャーナリストかどうかは、他人に決めてもらうしかない」と書いたこの原稿の掲載号が発売されたまさにその日、ヤフー・ジャパンは、このサイトを「ジャーナリスト」のカテゴリのリストに加えた。
 この日までヤフー・ジャパンのカテゴリ・ページからこのサイトへのアクセスはなかったから、どこにも登録されていなかったのだと思う。
 一種のユーモアということかしら?

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.438)

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