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2005.08.06

続「2ちゃんねるの時代は終わった」

ネットの一部でお騒がせしてしまった本コラムの後日談であると同時に、
今年相次いで本が出た注目の研究者たちのネットや日本社会についての議論を見る

●ネタになればなんでもいい?

 昨年の暮れ、この欄で、「2ちゃんねるの時代は終わった」というタイトルで、グローバル・コミュニケーション・センターの研究会の議論を紹介したら、当の2ちゃんねるなどでちょっとした騒ぎになった。「2ちゃんねる嫌い」の人たちによる「2ちゃんねる たたき」の議論と見られて反発を呼んだようだ。
 この研究会での議論は、2ちゃんねるを誹謗するのが目的でも、ましてや2ちゃんねるが好きか嫌いかはまったく関係なく、2ちゃんねるがかつてほどのパワーがなくなったということでしかなかったのだが、「2ちゃんねるの時代は終わった」というこのコラムのタイトルのせいもあってか、そういう雰囲気が生まれてしまったようだ。
 しかし、この討議に加わった研究者たち(の何人か)が、2ちゃんねるが好きなのか嫌いなのかといえば、どうもどちらかといえば好きらしい。
 北田暁大・東大助教授は、「私は『冬のソナタ』で爆笑、『世界の中心で、愛をさけぶ』で激怒した類の人間」だけど、ネット版『電車男』は、「パソコンに齧りつき2時間ほどでネット版『電車男』を読み終え、泣き、『電車男』関連のフラッシュ(動画)を観てまた泣いた」と、2ちゃんねるを舞台にしたドラマに感動したことを著書の冒頭で明かしている。
 先の研究会の話は、サヨ(左翼)=リベラル派による2ちゃんねる系ウヨ(右翼)たたきとも見られたようだが、グロコム研究員の鈴木謙介氏は、その著書で、2ちゃんねるの人々は、「ネタ」になればどういった話題でもかまわないのだ、と言っている。
 イラク邦人人質事件のときには、人質をバッシングした2ちゃんねるは、社会の右翼かの象徴とも見られた。しかし、そのあと日朝首脳会談から帰国した小泉首相を拉致家族が非難しているようすがテレビで流れたときには、支持者の政治的色あいが異なる拉致家族に対する批判が起こった。そうした例を見ても、2ちゃんねるでは「祭り」にすること、カーニバル化することが重要で、内容は問わず、つまらなくなればたちまち放棄してしまう持続性のなさがその特色だと言う。感動することそれ自体を自己目的化した「祭り」は、参加者につかのまの幸福感をあたえるとも書いている。
 前回取り上げたアメリカの学者サンスティーンは、ネットのフィルタリング機能が洗練されていくにつれて、ネットにアクセスしても同じ考えや好みのものしか出会わなくなり、社会が分極化していき危険だと指摘している。そして、従来のメディアがもたらしたような共同体験を持てるようにすることが必要だとも説いていた。
 ネットの「祭り」もまた明らかにひとつの共同体験だが、サンスティーンが共同体験の必要性を語ったのは、それによって、お互いが理解しあえる下地ができるからだった。たとえば戦争の悲惨な体験があれば、「戦争はもういやだ」という社会の共通の認識ができるし、実際に体験しなくても、メディアをとおして擬似的に共通体験ができれば、同じスタンスをとりやすい。
 しかし、「戦争はいやだ」と思っている人がいる一方で、現実の戦争にはまったく関心を持たず、戦争ゲームなどで殺人の快楽に酔いしれる人々が大量にいれば、このふたつの集団のあいだに理解可能性は生まれない。サンスティーンが言いたいのはそうしたことだ。
 さて、ネットの「祭り」には、相互理解を可能にする共通体験をはぐくむ効果があるだろうか。それとも、一時の熱狂によって生まれる衝動的な行為は、社会を危うい方向に動かすのだろうか。鈴木は、この批判に理由がないとは思わないが、現在生じている事態を断罪するのはまだ性急すぎる、と判断を留保している。
 たしかに「祭り」には誰かを攻撃するネガティヴな動きだけではなく、震災などの被害者の救助活動や、広島平和記念公園の折り鶴が放火によって燃やされたときには、「みんなで折り鶴を折って届けよう」という運動が起こるなど、ポジティヴな共同体験も生まれている。ネット上で作られる共同体験がどのようなものであるかを判断するのはまだ早い、ということには一理ある。

●感動できる自分に感動している

 北田も、イラク人質事件や北朝鮮拉致被害者たちへのバッシングを例に出しながら、「2ちゃんねる的世界のなかでは、あらゆる出来事・事象は内輪的コミュニケーションのネタとなるために存在している」と言い、2ちゃんねるで典型的なコミュニケーションのスタイルは、ネタを媒介した「嗤い」のやりとりだ、と言う。「嗤い」というのは、アイロニカルな対象との距離の取り方といった意味のようで、『電車男』が売れているということは、私たちの感動の方法が2ちゃんねる的になってきていて、「ストーリーへの感動ではなく、電車男の苦闘に2ちゃんねらーとして立ち会ったことへの感動、感動できる状況を、匿名の内輪の仲間たちと作りだしたことに対する自己言及的な感動」に浸るようになってきているのだという。メディアずれ、感動ずれしてきて、メディアや感動のウソを知りつつ、感動できる自分に感動するといった屈折したありようになっているというのは鋭い指摘だろう。
 北田は、いつもはシニカルでありながら、オリンピックやワールドカップなどのときには、どん欲に感動を求める日本の社会に危惧を感じている。しかしながら、ほかの恋愛物語にはげんなりしている自分も、『電車男』には感動したことに感動しているわけで、北田自身も、まぎれもなく批判的に分析しているいまの社会の一員である。
 社会学というのは、社会を対象化しながら研究する学問なのかと思っていたが、彼らの本は一種の自己分析になっていて、その点がとてもおもしろい。

●パワーが制御されている2ちゃんねる?

 ところで、バッシングなどの動きが膨れあがっていくのを抑える仕組みも、じつは2ちゃんねるにはあるようだ。前の原稿が騒がれていたころ、2ちゃんねるのあるスレッドに、2ちゃんねるの管理人と同名の「にしむら」という名前の人物による一種の反論が書きこまれた。
 この書きこみによれば、2ちゃんねるが巨大化しスレッドがたくさんできて、各スレッドに居着く人々が減りパワーが落ちたというが、それはわざとやっていることだ、と言うのだ。特定のサイトや個人に対するバッシングが起きたとき、ひとつのスレッドに多くの人がいれば反発がただちに怒濤のように押し寄せる。それを防ぐために、わざとたくさんのスレッドに分けている、ということのようだった。この書きこみが、ほんとうに2ちゃんねるの管理人のものだという保証はないが、少なくとも2ちゃんねるが現実にこうなっていることは確かだろう。
 水の一滴一滴が集まって滝になるようなネット上の圧力行動「サイバーカスケード」を、サンスティーンはネットの脅威のひとつとして指摘している。それにたいする予防策が、「サイバーカスケード」が起きる象徴的なサイトと見られがちな2ちゃんねるに意図的に組みこまれていることになる。もちろんスレッドを分けているのはサーバーの効率的な維持のためなどもあるだろうし、次々とほかのスレッドに「波」が伝わっていけば、サイバーカスケードはやはり起きる。しかし、津波の速度を遅らせるショック吸収装置も考えられているというのは、興味深い指摘だった。
 2ちゃんねるの管理人は、多くの人の時間とエネルギーを集めるサイトを作っただけではなく、2ちゃんねるの匿名性を守るために、誹謗された企業などからの告訴の対象になっており、負担をひとりで背負っている。そうした彼ならば、「サイバーカスケード」にたいするこうした防御策を周到に考えているということも、ありえなくはない。

関連書
北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス)。2ちゃんねる論もさることながら、糸井重里や小林よしのり、ナンシー関などについての論もおもしろかった。
鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)。「やりたいことしかしたくない」世代だと「説教される立場」の著者によるフリーターやニートについての論がおもしろい。
キャス・サスティーン『インターネットは民主主義の敵か』(毎日新聞社)。メディアを通して同じニュースに接するなどの共通体験がなくなると、いよいよ社会が分極化すると警告している。原書は二〇〇一年、邦訳が二〇〇三年に出たものだけど、その指摘のリアリティは増している。

(週刊アスキー「仮想報道」Vol.397)

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小林やすのり<よしのり、では?

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歌田明弘の『地球村の事件簿』: 続「2ちゃんねるの時代は終わった」 http://blog.a-utada.com/chikyu/2005/08/post_82f5.html  先週から立て続けにネタにして、ちょっと申し訳ないんですが。  メインの考察はあいかわらず読み応えがあります。ただ最後の段落、2ちゃんねるに「にしむら」名義で書き込まれた文章を西村博之氏のものという前提で語っているのは、ちょっと。もちろん、注意深く読めば断定はしていないし、実際に彼が書いたものかどうかは不問という扱いに... [続きを読む]

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